子ども会、育成会は大瀬川の清掃ゴミ拾いをした
環境教育を通して協同意識が高まる取り組みでした。今朝は、天候や参加者がどのくらいか、飲み物のことで4時半に起床。ラジオ体操のあと集落内のボランティア清掃見回りと元気度アップポイントシール配布
台風後わずか40日程でゴミが捨てられている実態を確認し、生態系を守るために、継続した取り組みの必要性を訴えた
 
	昨日午前8時45分頃から10数年ぶりに東目手久鍾乳洞を訪ねた。当時は道路脇からきび畑の畦を横断して水路伝いに行けばたどり着けたが、今回はさらに上まで登って右側の雑木林、竹林を経て小川に到着、ここを登っていった。当時の水路には木々が生え覆い尽くしていた。もはや10年過ぎると自然の猛威繁殖には抵抗できないのだ。更に台風の跡で、木々は倒れ大木も倒伏手のつけようがない。やっと通れるようにのこぎりで切って進む。当時楽々に案内した私がとまどうのだから、驚きとしか言いようがない。美山保さん達は昨年ここに入って時間経過で騒動し、本人も救急車で運ばれた。それとは知らず私はその本人に案内を頼んだ訳だ。申し訳ない。その後、上に抜けるという場所を案内してもらったが、そこは違法「ゴミ捨て場」と化していた。
美山さんの案内で目手久ダムを初めて知った。渡り鳥も来るという「ため池」だ。
権福の銀竜洞近くの手つかずの鍾乳洞は再発見に時間を要したが記憶をたどって見つけた。当時は「谷間であるため開発の手から逃れている」と説明した鍾乳洞だ。
地上部は赤土畑が広がる。広大な農地だ。近くまで開発の手が伸び、もはや地下部が赤土にまみれるのは時間の問題だ。
おそらくすでに、鍾乳石はつららも赤土で染まっていることだろう。入り口の写真だけ撮って思い出を胸に「永遠なれ、」と別れを告げた。
14年目の疎開船武州丸平和の夕べが朝日新聞に掲載された。
日本学術会議の任命拒否をする菅総理だが、任命されなかった人は全て「政権側にもの申す、」人たちだ。マイノリティ、少数派の意見を無視するより、圧殺する暴挙。今の香港を見るようだ。
「戦争はいつの間にかやってきた」と戦争経験者は語る。黙らされ、黙っていると無抵抗となり「若者が再び戦場へ向かう」日がやってくる。
徳之島「武州丸の悲劇」は兵隊だけでなく国民皆が犠牲者になることを伝えている。
平和を語る、平和を願う、平和を築くのは今の若者である、そのことを大人は責務とすべきだろう。
私は戦後生まれだが「聞いて、知って、伝える」ことはできる。なごみの岬~平和の碑、訪ねてほしい。刻印された富山丸のこと、3700余名の死者。家族、幼いこども、妻がいたことを。
徳之島で初のコロナウイルス感染者が出た。
被害者を差別したりしてはいけない。何時でもどこでも誰でも感染の危機にある、という認識が必要だ。
しかしながら、感染者のいる危険な地域に行くときは、用心すべきだろう。会社員・公務員気をつけよう!我慢するときは我慢しよう!
ラジオでも言っていました「個人の問題ではあるが、感染すると家族・地域(徳之島全域)に大きな問題が生じる」。
スポーツの自粛、不要不急の外出控えで商店街や飲食店への影響。マイナス面での経済に及ぼす影響は計り知れない。グラウンドゴルフ大会もなくなった。高齢者の足腰が衰え、体力も心配(自分もだが)
できることをしよう、ウォーキングや5,6人でグラウンドゴルフ。
ウイズコロナ、コロナと共に生きる、ことです。
「徳之島でコロナウイルス感染者出ました。」ニュースの翌日でしたがマスク着用で31名の参加者。平和ネットワークは日常の支え合い協力共同から生まれると感じた今日の慰霊の夕べでした。
冒頭あいさつで「コロナ感染者は被害者で有り差別偏見をなくすること、人種、宗教、あらゆる違いを認めることで戦争はなくなる。」「戦争という人災はいつの間にかやってくる。人権侵害の最たるもの。」「今なき犠牲者の声に耳を傾けて、・・・故人 澤津橋務さんの録音メッセージ」「子どもから高齢者が慰霊の夕べに参加すること。平和は与えられるものではない。若者に平和を構築することを望む。そのためには高齢者は体験、聞き語りをするべき」「一瞬にして夢・希望を絶たれた人たちの声なき声をつたえて」とあいさつした。
昨日、初のコロナ感染者が天城町で出たことで、学校関係の有志には参加を見送った人が多かった。日頃から平和教育を推進されている「武州丸と平和を考える会」の方々には申し訳ありませんでした。今回は鹿児島朝日新聞社記者も来島し取材していただきました。148名の無念さを多くの方々に知ってもらうことはありがたく「再びこどもたちを戦場に送るな、」の実践です。
亀津中学生の北山愛心さんは『私たちは犠牲になった人たちから『平和のバトン』を受け取りました、戦争の悲惨さや愚かさを学び、平和な世の中に感謝し戦争をしてはならないことを、世界中の人と共有し、語り継ぐことを誓います」と誓いの言葉を報告した
参加者、上原トヨ子さんは「戦争に行った兵隊さんも、疎開した人も同じ一つの命です。武州丸で犠牲となった人たちへの思いを共有したい、」と知って伝えたい強い思いを語ってくれました。
澤津橋 務さんは約10年後に他界した。
26日 土曜日 夕方4時 なごみの岬慰霊の夕べ
同じ事の繰り返しだが、誰かがしなくては。2006年故名城秀時遺族会長と出会い語り継ぐことを約束した。あれから14年。その間に米軍基地移設反対闘争もあった。
歴史は繰り返される恐れがある。
過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる、某大統領の声を数十年思いだし平和教育を推進してきた。ユネスコ憲章にある「戦争は人の心の中に生まれる、人の心に平和の砦を築かなければならない」
明後日26日夕方4時から慰霊の夕べ。未来のこどもたちにメッセージを。
戦争を体験していなくても、聞き、知って伝えることはできる。
故人 澤津橋務さんの平和のメッセージ(録音)を伝えたい。
9月26日(土)夕方4時 なごみの岬 武州丸慰霊碑 にて「武州丸と平和を考える会」・徳之島ユネスコ協会共催
再びこどもたちを戦場に送らない!戦争は人権侵害の最たるもの!
徳之島1万人集会、1万4000枚のチラシが配られ1万5千人、主催者発表であった米軍基地移設反対集会。
平和運動に加わり、人権同和教育に関わり「差別・偏見のない社会」運動をこれまで不特定多数の仲間達と共に取り組んできた。10年一昔、と言うが当時の高齢者(80代)は戦争体験者で有り、痛ましさを知った高齢者であった。今は歩行困難な90代となった。今の80代は戦時中に生まれ育ったが戦場を知らず、戦争の実態は知らない。そして70代前半は戦後生まれだ。
「戦争を知らないこどもたち」を歌った。反戦歌だ。今はそのような歌は一曲もない。若者は歌すら知らない。平和~だが、コロナは世界中の開発途上国で病気が蔓延している。
忘れた頃にやってくる、のが災害や戦争です。
富裕層には武器商人もいます。武器輸出国となった日本も約1兆円の商人ですね。
100機以上のF35戦闘機、1機 120億円とか。1兆円以上、アメリカ戦闘機を日本は買うそうです。殺人兵器~平和維持の武器だそうです。軍縮は軍拡へ、人間は富裕者が生き残り貧困者は戦場へ。
花はどこへ行った
娘達は花を摘む、墓の周りは花が一杯。娘達は花を若者へ、若者は戦場へ。今若者は墓の中、墓の周りは花で一杯。娘達は花を摘む~エンドレス 悲しみは繰り返されるのか。
戦争の悲惨さを、風化させない取り組みが必要です!
ユネスコ憲章 「戦争は人の心の中に生まれる。人の心の中に平和のとりでを」
SDGS 持続可能な開発目標 4「教育」世界寺小屋運動 をユネスコは展開しています。徳之島ユネスコ協会の一員として継続していきます。
武州丸慰霊の夕べは2006年から始めました。
遺族の高齢化、遺族会解散によって「つなぐ」ことを決意して仲間達と取り組んできました。
「亀津小学校を避難所に」
経緯
防災無線、9・10号号台風の時「避難所は生涯学習センターです。食料飲み物を準備して」
9月3日(木)朝 「台風10号の勢力はこれまで経験したことのない甚大な被害が予想される」報道によって亀津小学校長 狩集校長と避難所開設の際の協力を依頼、了承を得る。
校長「職員へも通知します」
9月4日(金)亀津小学校(ハザードマップでは避難所指定)を開設を総務課担当Sさんへ連絡、その後直接M総務課長へ「大瀬川沿いで避難者、高齢者が多い。コロナ対策も有りお願いします」。
「職員の配置ができない。学習センターの利用を」
9月5日(土)朝再度M総務課長へ
「わかりました、自治会で責任を持って開設できましたら了解です。校長へも連絡します」
ライン、放送で区民へ「生涯学習センターが避難所として放送されていますが、自治会では亀津小学校校舎を避難所として13時より開設します。」
・避難所開設の準備
5日 早朝 8時から
ゴザ8畳 4枚、6畳2枚。クーラーボックス。湯沸かし器ポット、コップ、ゴミ袋などを学校へ搬入
青年部 10時過ぎ学校集合。ゴザの配置
狩集校長「図書室はクーラー完備、解放します。校長室も本部として解放。更衣室のクーラーも使ってください」
13時から避難希望者 約40人、夜間12時30分ごろにも 最終62名。
お一人の女性が喫煙希望で「校舎内、敷地内はだめです、」と指導。
女性一人Mさんが消防団員の説得にも応じず「ここで死ねたら本望」と避難拒否。
男性Tさんも、再三の電話での避難勧告に応じず、青年部3人が迎えに行っても出てこなかった。
総務課へ白山君が電話。総務課「そんな人がいます。強制はできない。」
森電業社長夫妻が「足場の撤去ができなかった。設置業者は安全というが心配。」
「安全な場所へ移動しますから、」と対応。
6日(日)
大瀬川の水位を確認。黄色のラインが2本見える。「安心」
「九時頃の満潮時間と最接近が危険な時間。海側からの風が強くなれば3階は2階へ移動します。準備を、」と伝える。
その後20分ごとに1~3階を往復。
10時
「風が北西、山手からの風になりましたから安心です。3階の移動はありません。安心してください」
全員、安堵の様子。
永吉さん(弁当屋さん)上原さんから「おにぎりでも差し入れしたいのですが、」と打診。
「ありがたいことですが、料金は自治会から出します無理しないでください」
「とんでもない、料金はいりません。気持ちですから」
好意に甘え、その旨を皆さんへ伝える。感謝感謝!
おにぎりと卵味噌汁。
12時に 解散式
「風は2時以降に弱くなります」「今回の避難は災害がなく、台風のコースがそれたためです。」
「訓練として受け止めてください」「自助・共助・公助として自分の避難、次に隣近所の安否を気遣う、公的な助けは最後です。」「開設された亀津小学校(校長先生)への感謝を忘れないでください」
「施設内の清掃を、使う前よりきれいに!」
13時30分から清掃。各自 自宅へ帰り出す。
14時15分 清掃完了 冷蔵庫のお茶水は学校へ感謝を込めて寄贈。
*電源の確保(停電時の照明)
*見回り人員~独身・夫婦での避難可能な人。家族を守ることが第一であり、緊急災害時の対策にあたる組織を検討。消防団員含めて。
*差し入れや炊き出しもフリーな人員で組織を。
行政との密な連携
TVの受信が校長室でも不可。設置を要望する。天気予報、台風の情報はスマホのみ。
水などは予備分として提供してほしかった。
電源はバッテリーでもいい。照明器具用として。
62名の避難者は少なくない。
私事ですが、3階までの数十回の往復で6日夜、大腿筋が吊って痛い思いをしました。