心配された台風も影響なく 実施。結果はAブロック 1位亀徳142点 2位南区125点 3位北区96.5点 4位母間92.5点 5位神嶺71点 Bブロック1位中区148.5点 2位花徳145点 3位山119.5点 4位東区113点 5位手々81点 6位尾母47.5点
女子ムカデ、下駄ムカデは1位の栄誉に輝くも、3位に甘んじた。しかし11チーム中Aブロックをキープしていることは素晴らしい。
2006年12月11日戦跡巡りの中に 武州丸慰霊平和の夕べを実施。故 名城秀時さん政野富雄さん遺族から当時の事を知った。
20回目 世界情勢は戦前・戦時中ともいえる状況下で武州丸慰霊平和の夕べを実施し戦争と平和を語り、知って、そして伝える。
このような同じことの繰り返しを続けないと、危い人間の所業。中国は731部隊を国民に訴え恨み、報復ともいえる教育をする。
「戦争は人の心の中に生まれる、心の中に平和の砦を築かなければならない」ユネスコ協会の憲章である。妬み恨み、差別しない教育。
疎開命令のもとに撃沈された。1944年9月25日武州丸悲劇の前に、8月22日対馬丸、6月29日富山丸 国は全てを隠した。最近は国の名のもとに日米訓練が強行される。住民ではどうしようもない、「あの悲惨な出来事を繰り返さない、安らかに眠って下さい」と御霊に約束報告していいのだろうか。国民保護法案の下、いつ脱出するかわからない。ノアの箱舟の定員は、対象は?不安な時代に生きている。
あとは戦争を知らない政治家に命をゆだねる、ことになるのか。
武州丸慰霊 平和の夕べ 武州丸と平和を考える会 代表 幸多勝弘
武州丸撃沈から80年
1944(昭和19)年9月25日 夜9時 徳之島から疎開する154名は潜水艦 バーベル号の魚雷攻撃によって児童生徒77名を含む148名が帰らぬ人となりました。
米軍が沖縄に上陸し、南西諸島を経て本土攻撃へと近づく1944年9月25日。奄美・徳之島の近海では多くの疎開船対馬丸をはじめとして、多くの貨物船が撃沈されました。しかしこのことは軍事機密とされ、かん口令がしかれていました。
政府は南西諸島から1944年7月に10万人の疎開を閣議決定しました。
学童疎開の主な理由は、将来の日本国を担う小国民とされていたが、実際は奄美守備隊約7000名と飛行場整備のための当時の大島中学校生徒、与論永良部から徴用された人々 およそ11500人の食糧確保であり、戦争時の足手まといとされる老人、子供、女性を島から出すことでした。
都会に行けば 汽車に乗れる、冬は雪合戦もできる 本土への疎開は子どもたちにとっては 遠足や修学旅行のように思えたのです。しかし、制空権も制海権も終戦の1年前からすでにアメリカが掌握し、武州丸が撃沈された3か月前の1944年6月29日には亀徳沖では沖縄へ向かう 輸送船「富山丸」が3700余名の死者を出しており、疎開は死を覚悟しての旅だちでした。
戦時中における離島からの避難は終戦の1年前から絶望的だったのです。
このように考えると、戦争が始まったとき、鹿児島の大隅海峡が特定海域として今でも自由に中国籍の外国船が通過できるのですから、国民保護訓練で離島からの脱出、避難は不可能でしょう。
再び先の大戦と同じく南西諸島は本土防衛のための捨て石とならざるを得ません。
世界情勢をみてみますと 今は、世界中が「戦前」という危機に立たされています。
世界の終末時計は零時45分前からスタートして冷戦後1991年は17分 昨年今年90秒前です。
ロシアのウクライナ侵攻から2年を過ぎ、子どもを含め多くの犠牲者を出しています。
ハマスのイスラエル攻撃に端を発したイスラエルとパレスチナの戦争はガザ地区でのジェノサイドの様相を呈しています。餓死によって命を失う子どもたちがいます。
時を同じくして日米合同訓練、2023年11月7日 徳之島で訓練~タッチアンドゴー パラシュート降下訓練などは 戦争前夜の様相です。
「戦争は人の心の中で起きます、違いを認めない差別感情や貧富の格差です、私たちは心の中に平和の砦を築かなければならない」
日本全土の軍事化が進行していますが「武力によって現状を変更する」という事は、国際間で平和外交を推し進め、友好的に異文化を理解し、若者が交流することで恨みや差別は解消されるはずです。
「過去に目を閉ざすものは現在に対しても盲目である」「武力で平和は築けない!」
国民が独裁政権を許さない、民主主義国家を目指し、自国ファーストに陥らないこと。
武州丸からのメッセージ 生きていれば、0歳児の幼児は80歳でした。77名の子ども含む148名の御霊に誓いましょう。
「私たちは子どもたちの未来に、平和で夢と希望の持てる社会をつなぎます。」
2024年9月21日
2024年3月3日日曜日
77回目のバスフィールドワーク、全員ほぼシマンチュが参加した。これまでは教員、児童生徒が中心だった。「戦争は人の心の中に生まれる 心の中に平和のとりでを築こう!」復帰70周年から踏み出す今年 再度泉芳朗校長の神之嶺国民学校時代からスタートして面縄小学校、顕彰碑、芳朗の墓、面縄貝塚から生誕の地。
島を再発見!感動を伝えることだ。鍾乳洞も探検、天城岳登山入り口からマチャラの滝。
神之嶺小学校で泉芳朗の沿革史を金庫から出して校長が紹介。
ところが、「無いです!昭和18年泉芳朗が校長として赴任したころから20年度までの記録がすっぽり抜かれています!」
「町史編纂のため教育委員会に貸し出したのでは!?確認した方がいいですよ」
貴重な資料ですので学校に保管すべきですね。