日本復帰70周年 広報とくのしま

徳之島町出身者から発せられた知られざる「奄美日本復帰の第一声」
“奄美民族を救う道は本土復帰以外にない”と決意した亀津連合青年団長で、昭和22年(1947年)本土で復帰運動を興し、国際世論に訴えるために命がけの密航船で単身徳之島を脱出、宮崎から〝復帰運動を点火した〟人物がいる。
奇しくも前田長英と同じ年に亀津で生まれた〝爲山道則〟がその人である。
亀津尋常高等小学校から大志を抱き満州(中国東北部)に渡り満州鉄道入社、成績優秀ながら家が貧しく進学できない子弟を全国から集めていた難関満鉄育成学校に入学、満鉄高等学院に進むも繰り上げ卒業となり学徒出陣、終戦で復員後、向学心抑え難く大学入学するも先の見通し立たず帰島。
昭和21年(1946年)創立した亀津高等女学校の英語教師として着任。徳之島の学校教育で英語の授業は史上初めてであった。教師をしながら青年団活動を続け、亀津連合青年団長として島の民主化運動を牽引するも、祖国復帰を主張する青年団幹部に対する軍政府の迫害が激しくなり、昭和22年(1947年)、密航船で鹿児島県庁に行き、復帰運動のことを相談しようと奄美出身で後の副知事(保岡武久)を訪ねるも面会を拒否、知事も連合国軍総司令部(GHQ)に気遣い消極的だった。母県の鹿児島県頼むに足らずと分かり失望・落胆して、出身者の多い宮崎市大島町に行く。
そこで出身者の協力を得て大島町青年団をはじめ復帰運動の組織づくりに奔走、本土で初めて街頭での募金や署名活動の復帰運動を公然と展開する。
昭和25年(1950年)2月17日、宮崎県奄美大島青年団が全国の奄美同胞に「青年よ立ち上がれ」と呼びかけた檄文は、奄美の復帰運動の〝点火剤 〟 となった。この呼びかけに応え、郷土では奄美大島連合青年団が祖国復帰を民族運動として位置づけ、歴史的意義をもつ運動に乗り出した。
彼が奄美の日本復帰運動で果たした先駆的役割は、歴史上燦然と輝いている。そのような先人達から継承している奄美の若い血潮が、これからの島に、日本にどのような波を起こせるのか期待しているのは私だけであろうか。
彼はその後宮崎県庁に就職、退職後は県日中友好協会、社会福祉事業などへ大きく貢献し、厚生大臣賞を受賞している。

このように泉芳朗も徳之島出身者であり、その先駆者がいたことを忘れてはなりません。

母間騒動、犬田布騒動で一揆を起こすほどのしまんちゅの熱はその後も核燃料再処理工場反対、米軍基地移設反対と繋がっています。

さて、防衛費の果てしない増加 トマホークなど敵基地攻撃能力、奄美大島に配備されたハイマースは1発2100万円、連続8発?撃てば 国家予算が共生の時代でなく滅亡時代に使われる。

離島奪還の前にノアの箱船は有るのか? 出るのか?

2~3日定期船が来なければ島は食料不足に陥る 今度は中国人が離島に「満州国」を作るー

こんな時代が来ないように友好国として国交を平和に導くのが政治家だろう。

戦争を知らないゲーム世代の国会議員が平和を簡単にリセットできると勘違いしている。