徳之島高校、東天城中学校。亀津小5年生そして亀津北区の史跡巡り、花見とGゴルフ

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1月30日 高校生240名と教員へ「昨年日本復帰70周年」を話題に徳之島における復帰運動 前田長英、為山道則、泉芳朗の生まれから大島での教員時代 母校面縄小学校と愛郷心 東京、帰郷 戦争 赤土に謳う 詩の数々と背景、戦争と命のリレーを実話をもとに語った。過去に目を閉ざすものは現在(未来)に対しても盲目である、平和の構築を若者の手で、と。

1月31日は学校運営協議会で大谷翔平のグローブが亀津小に届き校長からお披露目。

2月15日東天城中生徒へも同様の話をした。奄美の若者と沖縄 糸満への人身売買。教科書密航。

北区女性連は2月4日 島の自然と戦跡を学習 9時から4時まで。

2月5日は母間小職員研修。

2月11日はスタディ井之川岳登山 アマミテンナンショウ トクノシマエビネ 数々の植物紹介。2月16日 亀津小学校5年生全員へ母間騒動の歴史的背景と住民の正義感、圧政に負けない団結力を紹介。

2月18日はボランティア清掃、グラウンドゴルフ 23名なんと私はホールインワン 2ゲームで35というスコアで優勝!

夜は阿権へ「観光客へ島唄と歴史を語る夕べ」でした。

 

日本復帰70周年記念と「教育かごしま」寄稿再掲載

 

「教育かごしま」2023年9月15日号 寄稿文章再掲載

(2013年60周年記念事業時の生涯学習センター掲載資料と独自の取材、資料収集による)

(前文)

奄美群島日本復帰70年企画    2023年12月25日、奄美群島は復帰70年を迎えます。

~苦難の歴史を乗り越えて~    1946年、奄美群島を含む北緯30度以南の鹿児島県の島々が日本本土から行政分離され、アメリカ軍政府下に置かれた事実を知らない世代も多いのではないでしょうか。

「アメリカ世(ゆ)」と呼ばれる異民族支配の苦難のなか、30回近く開催された集会活動、断食祈願や奄美の14歳以上の人々の実に99.8%が参加したと言われる署名運動、「本土」在住の奄美群島出身者による陳情活動などのねばり強い復帰運動を展開し、その結果、1953年12月25日、奄美群島は悲願の「日本復帰」をかちとりました。そこに教職員組合が大きくかかわっていたことはあまり知られていません。

奄美群島日本復帰70年という「節め」の年に、奄美の人たちが「民族運動」ととらえる「奄美群島復帰運動」を記録として残したい、「非暴力」「無血」で達成した「奄美群島復帰運動」に学びたいという想いから、奄美群島復帰70年企画として、各島々にゆかりのある方々にご協力をいただき、各島々の「復帰運動」の連載をスタートすることにしました。

(本文)

徳之島郷土研究会・徳之島ユネスコ協会  幸多勝弘

知って伝えたいことがある・・・・連綿と

1 日本復帰運動の黎明

日本復帰運動の炎は徳之島で叫ばれ、宮崎で狼煙(のろし)をあげ、奄美・全国へと広がった。

1946年、奄美群島を含む北緯30度線以南の島々が日本本土から行政分離され米軍統治下に置かれることになった。前田長英(徳之島町神之嶺出身)は、徳之島青年団の弁論大会で「同胞よ!我々奄美の人々は、歴史的にも民族的にもあるいは文化的にも日本人であることに間違いない。その我々が住む島々が昔から日本固有の領土であるという事実は、いかに巨大な力をもってしてもゆがめることはできないはずである。我々の生きる道は、異民族の支配から抜け出し、一日でも早く祖国日本に帰る以外にないのだ」と頽廃(たいはい)の咽(むせ)び。

*前田長英:南島史学会、歴史小説家。著書に「薩摩藩圧政物語」「黒糖悲歌の奄美」「潮鳴島」「ノロたちの黄昏」などがある

 

2 「泉 芳朗」以前の復帰運動

為山(ためやま)道則(みちのり)(徳之島町亀津出身)は、1943年学徒出陣、フィリピンで負傷し終戦をむかえ、徳之島へ帰島。1947年徳之島高等女学校の英語の教員となった。(*徳之島高校沿革によると昭和21年3月31日亀津町立高等女学校設立。昭和22年3月31日亀津町立実業高等学校設立。昭和24年4月10日同校を廃し、徳之島高等学校設立。となっているので英語教員は1946年の誤り1947年は実業高等学校 旧職員名簿に為山道則は1946~1948高等女学校・実業高等学校欄に掲載)

1949年奄美の復帰を国際世論に訴えようと考え、亀津から密航船に乗り、途中、中之島で乗り換え3泊4日かけて山川にたどり着いた。目的は、県庁に行き奄美出身の保岡武久(後の副知事)を尋ね、今後のことについて相談することだったが、保岡は面接を拒否した。重成(しげなり)格(かく)知事に半時間会うことができたものの、知事は「復帰運動をすると連合国最高司令部(GHQ)ににらまれる」と消極的であった。為山は鹿児島県の冷たい仕打ちに落胆失望した。

鹿児島が頼むに足らずとわかり、憤りを感じた為山は、亀津出身者が多い宮崎市大島町にむかった。当時、奄美・沖縄出身者は仕事もなく苦しい生活をしていた。与論島出身の川畑秀吉(当時、宮崎市大島町在住)と二人で復帰運動の組織づくりを開始。為山は宮崎県連合青年団長となり「日本復帰運動」を宮崎県から展開! 1950年2月下旬、3200人の署名を添え宮崎県議会に「奄美大島の日本復帰について」という陳情書を提出、満場一致で採択された。

奄美の全市町村、議長、青年団長等に対して「祖国復帰に立ち上がれ、我々は歴史的にも法的にも日本人である。3月1日を期して日本復帰署名運動を開始する」と檄文を発送した。そのニュースがたちまち全国に流れ、アメリカにも衝撃を与えた。

なぜ、宮崎で復帰の声が上がったのか。現地奄美は米軍政府の影響を受けて身動きがとれないため、本土の方が容易で早かったのである。

戦後、奄美の引き揚げ者たちは一時的に鹿児島と宮崎に分散、滞在した。宮崎は黒潮に洗われ、温暖で土地も肥沃。「大島部落、密造酒部落」と呼ばれたが、「島蔑視」は鹿児島より少なく、奄美、特に徳之島の人たちを中心に定住した。戦後、奄美出身者により鹿児島市だけでなく全国で鹿児島県奄美連盟が組織されていたことから、瞬く間に宮崎の狼煙は全国へと広がった。闘いは内と外で組織され功を奏したのである。

 

3 泉 芳朗の徳之島における足跡(1952年11月29日、本名「敏登(としのり)」から「芳朗」と改名)

我が郷土の誇り、「復帰運動の父」と呼ばれる泉芳朗は、1905年面縄に生まれ、1924年、鹿児島第二師範学校を卒業、赤木名小学校をはじめ古仁屋小学校、面縄小学校に勤務した。この間の泉は、「詰め襟の学生服を着て、体格が良く相撲が強く文学的で情熱的、生徒のあこがれの的」だった。演説会では同僚牧野周吉(後に哲学者)、四本忠俊(元明大教授)らと古い因習の打破にとりくむが断念、転勤を余儀なくされる。翌年1925年大島郡古仁屋小学校に転勤したが、ここでも「自由・平等」 を唱える泉は危険思想者としてのレッ  テルを背負った教員として1926年再び転任、生まれ故郷の母校面縄小学校に赴任した。      〈泉芳朗〉

母校勤務時代に第一詩集「光は濡れている」を出版。詩の背景にはシマンチュの人生・世界

観を容認しながらも古いしきたりや因習の中で繰り返される横暴、不合理を許さない姿勢が窺(うかが)え、土着の権力に妥協することは進歩、創造など知的な個性を放棄すると訴えた。「島の行く手は、はるかに日暮れている」。三世紀にわたる薩摩統治の中で無知と貧困と隷属に慣らされている島の姿にいたわりと憤りを持った泉は、詩文学への思いと、声高に叫びたい思いに駆られ、東京へと旅立った。

1928年上京、千(せん)駄(だ)谷(がや)小学校訓導として勤務。30歳で板橋小学校転任。34歳まで11年間、勤務のかたわら詩文学活動に入り、詩集・詩誌を刊行し詩壇に高く評価された。第二集のあとがきには「自分は常に郷土を信ずる。郷土のみのもつ民族的な魂と力とを慕ふ」と奄美人であることを誇らしげにうたいあげた。

健康を害し喘息、巣鴨の下宿でも咳込んでいたため、1939年、 34歳で帰郷を決意。その当時、思想、信仰、言論、出版弾圧と「『天皇陛下バンザイ!』と最後の一声を唱えて死ぬべし」といった「国家天皇のために命を捧げることは最高の誉れ」とする戦争への道が叫ばれていたため、戦争協力者へ急旋回する作家たちへの憤りもあったと思われる。

この時の心境を「僕は落ち延びてきた。病気と戦争のためにすべての文学的野心をなげうって、もはや二度と東京へ舞い戻るという希望までを完全に失ってしまったとは言い切れないが・・・遠く南海の孤島へ」と残している。後に友人の執筆で「泉芳朗詩集」、詩誌「泉」が出版されたのは、実に芳朗の死から20年後だった。友人たちから愛され詩人として認められていたことがわかる。

泉敏登(芳朗)は二年近くの自宅療養をした後、鹿児島県視学(第2次世界大戦前の日本の国家および地方の教育行政官のこと)であった丸野清司に教員採用希望の履歴書を提出した。教員歴17年のキャリアを持つ泉だったが、自由主義者(国賊)のレッテルが貼られていたため、大島教育事務局は1941年4月「代用教員」の辞令しか出さなかった。ところが丸野視学は学校視察の際に泉を伊仙国民学校教頭に就任させ、その後、1943年10月8日付けで神之嶺国民学校に校長として転勤した。当時の徳之島の様子については、泉自筆の学校沿革(学校日誌)が残っている。

1944年6月末には奄美守備隊(立混成第64旅団司令部)牛島満中将 琉球軍司令部指揮下で7000名の兵隊が徳之島入り。食糧確保、「足手まとい」として、南西諸島からは10万人の疎開命令が出された。沖縄からの疎開船対馬丸、徳之島の武州丸など子どもや高齢者が犠牲者となった。本土防衛の前線基地とみなされた沖縄の次は奄美だった。

1944年10月31日付で沖縄本島守備隊(球3109部隊)に召集された平哲治助教の「殺戮の旅に赴くわれに師(泉芳朗)はたった一言『生きて還れ』と!私は銃撃により足を負傷、入隊した1500名中傷痍軍人として僅か20数名が帰還」という言葉が残っている。さらに平哲治は戦争体験手記に「空襲の際御真影を奉安殿から避難させながら、沖縄守備隊へ入隊する私に『死にどぅ すんなよ(死んではならんぞ!)、この戦に勝ちめはないよ。独裁を良しとする軍閥が国を支配しているかぎり、その国の国民は彼らの命令で命をも捨て去らなければならない。一国の領土を我が家の畑にし、国民を牛馬同様私物化しようとしているのも同然だ、全体主義を国民に押しきせて、戦争をおっぱじめた東条以下日本の軍閥どもだよ。独裁者は一日でも早く地球上から一掃した方が人類のためになる、と僕は思っているよ!』」と泉のことばを残している。

 

4 復帰運動の舞台は奄美へ

第二次世界大戦の敗戦により1947年2月以降、祖国から分離された奄美群島は米軍の支配下に呻吟(しんぎん)し、「集会、言論、出版の自由等の規制」、子どもたちはノートも鉛筆もない学校とは名ばかりの掘っ立て小屋で学習する、 配給物

資や予算配当の不足によるさまざまな物資の不足など、民族の苦悩は筆舌に尽くしがたいものがあった。

泉は、約3年務めた鹿児島県視学(今の大島教育事務所長)を辞して復帰運動にのめりこんでいった。1951年2月、祖国復帰悲願達成のため奄美大島日本復帰協議会が結成されると、泉は推されてその議長に就任し、日本復帰請願署名

運動をはじめとして、断食祈願、本土政府、米国政府との折衝、請願など、先頭に立ち、身命を賭して尽力した。1953年12月25日、祖国復帰が実現し、群島民ひとしくその功績を讃え「復帰運動の父」とたたえられるにいたった。

復帰運動の舞台が奄美へとうつった後の徳之島では、名瀬における復帰運動に連動した形での署名運動や復帰運動がすすめられた。

5 最後に

「アメリカ世(ゆ)」と呼ばれる異民族支配の苦しさを味わった徳之島に2010年米軍基地建設の計画が持ち上がった時は、圧政に立ちむかった犬田布騒動(一揆)・母間騒動(一揆)の民衆の熱、DNAを奮い立たせ、全島あげての米軍基地建設反対闘争の闘いを繰り広げた。逆境に立ちむかった時に生まれる団結、情熱は時代を超えて永遠のエナジーとして受け継がれていると思うし、後生に伝えていかなければならないと思っている。

平成17年からの学校職員・生徒対象の人権同和教育・歴史、島内フィールドワークも今月で170回を超す。人権と平和の思いが届いているだろうか。世界情勢を危惧しながら足下の活動として「子どもたちの輝く平和と未来のために」ライフワークとして続けるつもりです。

 

 

 

 

 

 

〈2010年の基地移設反対闘争〉

復帰70周年 疎開船武州丸慰霊「平和の夕べ」本日実施

本日 疎開船武州丸 慰霊「平和の夕べ」を 亀徳 なごみの岬 「武州丸遭難者の碑」前にて午後4時から行います。

武州丸の撃沈 148名からの平和のメッセージを伝え、風化させない平和教育実践の集いです。

「つどい、知り、伝えたい」子どもたちに輝く平和な未来を残したい!世界情勢を見ると今はまさに戦前です。

参加することは、平和構築の一歩です!

徳之島町立山中学校学校だより令和5年8月30日 Shine   写しです

【少人数の良さを生かす。生徒がきらり輝く教育】 Area【地域の人や自然を生かす。地域に根ざした学校】 Never give up 【ひたむきに努力する教師と生徒】

平和学習 7月18日(火)の3校時に,平和学習を実施しました。 今年は,徳之島郷土研究会 会長 徳之島ユネスコ協 会の幸多勝弘さんを講師として招聘し,「戦後78年 日本復帰70周年 戦争と平和について考える」という テーマで,講話していただきました。 山集落の歴史,現在の世界情勢,奄美群島の本土復帰 までの様々な活動,疎開船「武州丸」等,多岐にわたる 貴重なお話しを聞かせていただきました。 奄美群島本土復帰については,復帰運動に活躍された 前田長英氏,為山道則氏,泉芳朗氏 3名の活動を通し て詳しく知ることができました。 疎開船「武州丸」のお話では,山集落の25名の方が 犠牲となった事,その中で児童が12名犠牲となったことも知りました。 講話のまとめでは,「過去に目を閉ざす者は,現在も盲目になる」,「人権侵害の最 たるものは“戦争”~戦争に正義はない~」という言葉を挙げ,「みなさんには戦争の 悲惨さと命の貴さを常に心にもつていてほしい。」,「二度と戦争は起こしてはならな いのです。」ということを強調して,平和学習を締めくくってくださいました。

 

日本復帰70周年 広報とくのしま

徳之島町出身者から発せられた知られざる「奄美日本復帰の第一声」
“奄美民族を救う道は本土復帰以外にない”と決意した亀津連合青年団長で、昭和22年(1947年)本土で復帰運動を興し、国際世論に訴えるために命がけの密航船で単身徳之島を脱出、宮崎から〝復帰運動を点火した〟人物がいる。
奇しくも前田長英と同じ年に亀津で生まれた〝爲山道則〟がその人である。
亀津尋常高等小学校から大志を抱き満州(中国東北部)に渡り満州鉄道入社、成績優秀ながら家が貧しく進学できない子弟を全国から集めていた難関満鉄育成学校に入学、満鉄高等学院に進むも繰り上げ卒業となり学徒出陣、終戦で復員後、向学心抑え難く大学入学するも先の見通し立たず帰島。
昭和21年(1946年)創立した亀津高等女学校の英語教師として着任。徳之島の学校教育で英語の授業は史上初めてであった。教師をしながら青年団活動を続け、亀津連合青年団長として島の民主化運動を牽引するも、祖国復帰を主張する青年団幹部に対する軍政府の迫害が激しくなり、昭和22年(1947年)、密航船で鹿児島県庁に行き、復帰運動のことを相談しようと奄美出身で後の副知事(保岡武久)を訪ねるも面会を拒否、知事も連合国軍総司令部(GHQ)に気遣い消極的だった。母県の鹿児島県頼むに足らずと分かり失望・落胆して、出身者の多い宮崎市大島町に行く。
そこで出身者の協力を得て大島町青年団をはじめ復帰運動の組織づくりに奔走、本土で初めて街頭での募金や署名活動の復帰運動を公然と展開する。
昭和25年(1950年)2月17日、宮崎県奄美大島青年団が全国の奄美同胞に「青年よ立ち上がれ」と呼びかけた檄文は、奄美の復帰運動の〝点火剤 〟 となった。この呼びかけに応え、郷土では奄美大島連合青年団が祖国復帰を民族運動として位置づけ、歴史的意義をもつ運動に乗り出した。
彼が奄美の日本復帰運動で果たした先駆的役割は、歴史上燦然と輝いている。そのような先人達から継承している奄美の若い血潮が、これからの島に、日本にどのような波を起こせるのか期待しているのは私だけであろうか。
彼はその後宮崎県庁に就職、退職後は県日中友好協会、社会福祉事業などへ大きく貢献し、厚生大臣賞を受賞している。

このように泉芳朗も徳之島出身者であり、その先駆者がいたことを忘れてはなりません。

母間騒動、犬田布騒動で一揆を起こすほどのしまんちゅの熱はその後も核燃料再処理工場反対、米軍基地移設反対と繋がっています。

さて、防衛費の果てしない増加 トマホークなど敵基地攻撃能力、奄美大島に配備されたハイマースは1発2100万円、連続8発?撃てば 国家予算が共生の時代でなく滅亡時代に使われる。

離島奪還の前にノアの箱船は有るのか? 出るのか?

2~3日定期船が来なければ島は食料不足に陥る 今度は中国人が離島に「満州国」を作るー

こんな時代が来ないように友好国として国交を平和に導くのが政治家だろう。

戦争を知らないゲーム世代の国会議員が平和を簡単にリセットできると勘違いしている。

終戦記念日に思う 語り継ぐ実践を通して

大本営発表で勝利!確信して若者を戦場に送り出した満州事変、日中戦争、太平洋戦争。310万人の戦争犠牲者を出した日本。果ては一億玉砕と国民を死へと導いた 軍部、戦時教育の教訓は活きているのか。

終戦記念日は果たしてそうなのか。今は世界戦争前夜の様相を報道機関も流している。だが、日本国民にその危機感は無いに等しい。コロナ禍でも観光経済政策に目を囚われウクライナや周辺国、中国とロシアの合同訓練も開始されようとしている。それはロシアがウクライナ進行前に訓練と称して軍隊を移動結集していたのと変わらない。要するにいつでも台湾有事も起こりうるし、与那国や波照間 南西諸島が中国から、そして北方領土から、北海道へとロシアの手がのびることを意図的に画策、日本をも威嚇している。

そんな時、日本政府は専守防衛という9条を無くし攻撃のできる国づくりを憲法改革でやろうとしている。

人道的な支援こそ世界が求めている時代に、あの忌まわしい第二次世界大戦の前夜ともいえる軍事力の増強に世界が走っていく。目には目を!棒を持てば石を投げる、刀で、槍で、鉄砲で・・・・世界破滅の道筋を政治家も「防衛」という名の先制攻撃を目論んでいる。危ない!

戦争体験者の声は8月だけのことなのか?1944年9月25日疎開船「武州丸」からのメッセージは聞こえないのか。子ども老人、婦女子が犠牲になった戦争の体験は忘れられ、ゲーム感覚の政治家が世界の平和を願う、貧しくも幸福な人々の「今」を破壊し、私利私欲のため戦争に走る。

一発のミサイルが2100万円、これでどれだけのミルクが買えて、何万人の子どもたちの命が救えるのだ。

軍需産業は栄え、武器商人は豪邸にくつろぐ。貧しい人々は貧困ゆえに、イラク戦争の州兵が奨学金ほしさに戦地に向かったように、いつか経済格差によって日本の貧しい若者は食うため学びの奨学金ほしさに、殺人者になる。生きるため、国の為?今のロシア風がやって来る。

戦前の今、考えてほしい。「命ど 宝」私の妻は昭和の時代、幼い子供二人に言っていたのを思い出す。「戦争になったら足の一本を切り落としてでも兵隊にやらない」と。

武州丸の犠牲者148名と内77名の子どもたちの御霊に「再び子どもたちを戦場に送らない」と約束し、今年も慰霊の夕べを9月24日午後4時から なごみの岬で実施します。

 

夏休み平和学習 犬田布中学校

今は戦後、戦時中、戦前?

日本は太平洋戦争終戦から戦後、といっても良い。中国や北朝鮮の軍拡、そしてロシアのウクライナ侵略、ミャンマーの軍事政権などを思うと戦時中であり一触即発の戦前ともいえる。ロシアの状況を見ると日本の戦前を思わせる。自国の貧困から満州へ渡り、開拓団と称して満州の人々の土地を奪う。それとは知らず満州へ渡る日本国民だった。日中戦争が勃発、侵略国家となり三国同盟に活路を求めたが米英はそれを許さず経済制裁。ここまでくると今のロシアと似ている。戦争はいつの時代も男社会、政治家が起こす、が犠牲者は老幼婦女子である。

学童疎開船の対馬丸・武州丸の悲劇から78年だ。記憶に新しい。悲劇を忘れず伝えたい。

沖縄の鉄血勤皇隊、ひめゆり学徒隊や少年たちの特攻隊、学徒出陣と若い青少年の夢と希望が絶たれる。誰のため?何のため?命を捨てるのか。戦争はお互いの「正義」の戦いである。言い分がある、そして報復は新たな報復を呼ぶ。憎しみの連鎖を絶つことができるのか?これこそが政治家の仕事。国民の弱者である、貧しい、学歴の低い人たちが前線に送られる。イラク戦争でもアメリカの州兵隊が奨学資金ほしさに出兵した。

今の政治家は、生々しい戦場も痛みも知らない。自分たちが戦場、前線に立つはずはない、と信じている。外交努力で共存共栄の思いを怠けていると、いつのまにか恨み、嫉妬を買う。独裁者を出してはいけない。ぬるま湯から抜け出して、若者たちの未来・夢のために国際協力、努力をすべきだ。

少なくともこのどさくさに紛れて軍事力増強、核兵器持つべしなどと右傾化し、元来た道に戻らないでほしい。再び子どもたちを戦場に送らない!大人であってほしい。

馬毛島とラプコン《radar approach control》を考える

2010年の徳之島への米軍基地移設反対闘争の教訓から、伝えたい

《radar approach control》レーダー進入管制。 地上誘導着陸方式によるもので、空港監視レーダーと精測進入レーダーを用い、無線電話により操縦士に指示を与えて着陸させる。

嘉手納ラプコンは、嘉手納基地から半径90キロ、高さ6000メートルの空域と、久米島空港の半径55キロ、高さ1500メートルの空域の進入管制業務を嘉手納基地のレーダーで米軍が実施してきました。

那覇空港から離着陸する民間機は、嘉手納基地に離着陸する米軍機と航路が重なるため、約10キロの間、高度300メートルの低空で飛行するという「高度制限」を義務付けられています。

こうした米軍優先により、ニアミス(異常接近)の発生、低空飛行による乱気流発生時でのトラブルの可能性が指摘され、民間機の安全優先、燃料負担の軽減などから嘉手納ラプコンの早期返還が求められていました。

国土交通省は、返還後は地上と上空の管制を日本側で行うため、米軍機の飛行状況が早めに把握でき、米軍機の状況によっては高度制限せずにスムーズな着陸・上昇が可能としています。


変わらぬ米軍優先

嘉手納ラプコンの日本への返還は「空の主権回復」、民間航空の安全確保という点で前進です。

しかし全面返還ではありません。国土交通省も認めるように高度制限の“緩和”は、あくまで嘉手納基地や普天間基地を離着陸する米軍機の飛行計画が予定されていない場合です。米軍機の飛行や作戦計画に支障のない範囲が前提なのです。

馬毛島でのタッチアンドゴー、離着陸訓練は「ラプコン」という、空域の制限下で行われる。であれば種子島、屋久島方面から国内線はおのずと狭い空域しか運航できない。わが物顔で制空権をもって轟音を轟かせても文句は言えない。2010年まで那覇空港がわずか高度300mしか許されてなかったことを知っているのだろうか。

 

2009年薩摩侵攻400年記念シンポジウム以来の再会

あまみ庵、奄美全域の歴史書 中古本を販売している 森本さんです。

奄美への熱い思いを語りました。

戦時中、1944年6月末徳之島へは奄美守備隊独立混成第64団約7000名が入り山中にタコツボや戦争準備のあとがあり、6500名の疎開命令が出された。戦場となる想定だ。

だが森本さんのしまんちゅからの聞き取りではこの頃大島、瀬戸内や喜界島では区長等を中心に米軍が上陸してきたら島民は集団自決をするようにと場所や方法が浸透していた。

沖縄と同じ運命を背負っていたのです 。戦争が住民を巻き込むという証言を得ました。

 

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疎開船武州丸慰霊の夕べご案内

 

川辺へ2008年5月22日訪問~ 2018年4月25日逝去

澤津橋 務さんは約10年後に他界した。

26日 土曜日 夕方4時 なごみの岬慰霊の夕べ

同じ事の繰り返しだが、誰かがしなくては。2006年故名城秀時遺族会長と出会い語り継ぐことを約束した。あれから14年。その間に米軍基地移設反対闘争もあった。

歴史は繰り返される恐れがある。

過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる、某大統領の声を数十年思いだし平和教育を推進してきた。ユネスコ憲章にある「戦争は人の心の中に生まれる、人の心に平和の砦を築かなければならない」

明後日26日夕方4時から慰霊の夕べ。未来のこどもたちにメッセージを。

戦争を体験していなくても、聞き、知って伝えることはできる。

故人 澤津橋務さんの平和のメッセージ(録音)を伝えたい。

 

命のタスキリレー(4)

私たちはこの熱意を決して忘れない!住民運動が政府の思惑をはねのけた命のリレーを。

 読売新聞 7月20日 朝刊 
記事の概要
複数の政府関係者によれば、沖縄の基地負担軽減策として日本政府が検討してきた米海兵隊の訓練を徳之島(鹿児島県)に移転する案について、政府は事実上断念する方針を固めた。移転に反対する地元の反発が強いことや、「使用される徳之島空港の滑走路整備費などが総額1000億円」(政府筋)に達する見込みになったためだ。訓練は年に数回しか行われない見通しで、政府内では「国家財政が厳しい中、予算が巨額すぎる」(防衛省筋)との意見が強まった。
このため政府は、2011年度予算案には徳之島への訓練移転のための調査費を計上せず、事実上、白紙に戻す方針を決めた。
徳之島は5月の日米協議で日本政府が唯一、訓練移転策として具体的地名の明記を米側に主張したものだ。その断念は、民主党政権に対する沖縄の信頼感のさらなる低下につながりかねない。
今後の普天間移設先協議は一段と厳しいものになりそうだ。

コメント「最低でも県外」という鳩山前首相の言葉から、思いつきの様に徳之島案が浮上してきた。
そこに基地利権で大もうけしたい人の欲がからみ、軍事問題など関係なく経済振興策などのアメが語られた。
それを知った島民の反対運動が一気に高まって基地建設は潰された。
移転案が潰されてみれば、年に数回の訓練に1000億円の滑走路改修費などが必要だからという。
軍事には不思議に人を惑わすものが含まれている。特に兵器や予算にそれが多い。あまりにも大きな威力や膨大な金額に普通の常識が狂ってしまうのだ。それは権力と似ている。1000円の定食が高いと思う同じ心が、一台10億円の戦車を手頃の値段かと考えたり、1発1千万円のミサイルが演習で外れても何も感じない感覚である。