日本復帰70周年記念と「教育かごしま」寄稿再掲載

 

「教育かごしま」2023年9月15日号 寄稿文章再掲載

(2013年60周年記念事業時の生涯学習センター掲載資料と独自の取材、資料収集による)

(前文)

奄美群島日本復帰70年企画    2023年12月25日、奄美群島は復帰70年を迎えます。

~苦難の歴史を乗り越えて~    1946年、奄美群島を含む北緯30度以南の鹿児島県の島々が日本本土から行政分離され、アメリカ軍政府下に置かれた事実を知らない世代も多いのではないでしょうか。

「アメリカ世(ゆ)」と呼ばれる異民族支配の苦難のなか、30回近く開催された集会活動、断食祈願や奄美の14歳以上の人々の実に99.8%が参加したと言われる署名運動、「本土」在住の奄美群島出身者による陳情活動などのねばり強い復帰運動を展開し、その結果、1953年12月25日、奄美群島は悲願の「日本復帰」をかちとりました。そこに教職員組合が大きくかかわっていたことはあまり知られていません。

奄美群島日本復帰70年という「節め」の年に、奄美の人たちが「民族運動」ととらえる「奄美群島復帰運動」を記録として残したい、「非暴力」「無血」で達成した「奄美群島復帰運動」に学びたいという想いから、奄美群島復帰70年企画として、各島々にゆかりのある方々にご協力をいただき、各島々の「復帰運動」の連載をスタートすることにしました。

(本文)

徳之島郷土研究会・徳之島ユネスコ協会  幸多勝弘

知って伝えたいことがある・・・・連綿と

1 日本復帰運動の黎明

日本復帰運動の炎は徳之島で叫ばれ、宮崎で狼煙(のろし)をあげ、奄美・全国へと広がった。

1946年、奄美群島を含む北緯30度線以南の島々が日本本土から行政分離され米軍統治下に置かれることになった。前田長英(徳之島町神之嶺出身)は、徳之島青年団の弁論大会で「同胞よ!我々奄美の人々は、歴史的にも民族的にもあるいは文化的にも日本人であることに間違いない。その我々が住む島々が昔から日本固有の領土であるという事実は、いかに巨大な力をもってしてもゆがめることはできないはずである。我々の生きる道は、異民族の支配から抜け出し、一日でも早く祖国日本に帰る以外にないのだ」と頽廃(たいはい)の咽(むせ)び。

*前田長英:南島史学会、歴史小説家。著書に「薩摩藩圧政物語」「黒糖悲歌の奄美」「潮鳴島」「ノロたちの黄昏」などがある

 

2 「泉 芳朗」以前の復帰運動

為山(ためやま)道則(みちのり)(徳之島町亀津出身)は、1943年学徒出陣、フィリピンで負傷し終戦をむかえ、徳之島へ帰島。1947年徳之島高等女学校の英語の教員となった。(*徳之島高校沿革によると昭和21年3月31日亀津町立高等女学校設立。昭和22年3月31日亀津町立実業高等学校設立。昭和24年4月10日同校を廃し、徳之島高等学校設立。となっているので英語教員は1946年の誤り1947年は実業高等学校 旧職員名簿に為山道則は1946~1948高等女学校・実業高等学校欄に掲載)

1949年奄美の復帰を国際世論に訴えようと考え、亀津から密航船に乗り、途中、中之島で乗り換え3泊4日かけて山川にたどり着いた。目的は、県庁に行き奄美出身の保岡武久(後の副知事)を尋ね、今後のことについて相談することだったが、保岡は面接を拒否した。重成(しげなり)格(かく)知事に半時間会うことができたものの、知事は「復帰運動をすると連合国最高司令部(GHQ)ににらまれる」と消極的であった。為山は鹿児島県の冷たい仕打ちに落胆失望した。

鹿児島が頼むに足らずとわかり、憤りを感じた為山は、亀津出身者が多い宮崎市大島町にむかった。当時、奄美・沖縄出身者は仕事もなく苦しい生活をしていた。与論島出身の川畑秀吉(当時、宮崎市大島町在住)と二人で復帰運動の組織づくりを開始。為山は宮崎県連合青年団長となり「日本復帰運動」を宮崎県から展開! 1950年2月下旬、3200人の署名を添え宮崎県議会に「奄美大島の日本復帰について」という陳情書を提出、満場一致で採択された。

奄美の全市町村、議長、青年団長等に対して「祖国復帰に立ち上がれ、我々は歴史的にも法的にも日本人である。3月1日を期して日本復帰署名運動を開始する」と檄文を発送した。そのニュースがたちまち全国に流れ、アメリカにも衝撃を与えた。

なぜ、宮崎で復帰の声が上がったのか。現地奄美は米軍政府の影響を受けて身動きがとれないため、本土の方が容易で早かったのである。

戦後、奄美の引き揚げ者たちは一時的に鹿児島と宮崎に分散、滞在した。宮崎は黒潮に洗われ、温暖で土地も肥沃。「大島部落、密造酒部落」と呼ばれたが、「島蔑視」は鹿児島より少なく、奄美、特に徳之島の人たちを中心に定住した。戦後、奄美出身者により鹿児島市だけでなく全国で鹿児島県奄美連盟が組織されていたことから、瞬く間に宮崎の狼煙は全国へと広がった。闘いは内と外で組織され功を奏したのである。

 

3 泉 芳朗の徳之島における足跡(1952年11月29日、本名「敏登(としのり)」から「芳朗」と改名)

我が郷土の誇り、「復帰運動の父」と呼ばれる泉芳朗は、1905年面縄に生まれ、1924年、鹿児島第二師範学校を卒業、赤木名小学校をはじめ古仁屋小学校、面縄小学校に勤務した。この間の泉は、「詰め襟の学生服を着て、体格が良く相撲が強く文学的で情熱的、生徒のあこがれの的」だった。演説会では同僚牧野周吉(後に哲学者)、四本忠俊(元明大教授)らと古い因習の打破にとりくむが断念、転勤を余儀なくされる。翌年1925年大島郡古仁屋小学校に転勤したが、ここでも「自由・平等」 を唱える泉は危険思想者としてのレッ  テルを背負った教員として1926年再び転任、生まれ故郷の母校面縄小学校に赴任した。      〈泉芳朗〉

母校勤務時代に第一詩集「光は濡れている」を出版。詩の背景にはシマンチュの人生・世界

観を容認しながらも古いしきたりや因習の中で繰り返される横暴、不合理を許さない姿勢が窺(うかが)え、土着の権力に妥協することは進歩、創造など知的な個性を放棄すると訴えた。「島の行く手は、はるかに日暮れている」。三世紀にわたる薩摩統治の中で無知と貧困と隷属に慣らされている島の姿にいたわりと憤りを持った泉は、詩文学への思いと、声高に叫びたい思いに駆られ、東京へと旅立った。

1928年上京、千(せん)駄(だ)谷(がや)小学校訓導として勤務。30歳で板橋小学校転任。34歳まで11年間、勤務のかたわら詩文学活動に入り、詩集・詩誌を刊行し詩壇に高く評価された。第二集のあとがきには「自分は常に郷土を信ずる。郷土のみのもつ民族的な魂と力とを慕ふ」と奄美人であることを誇らしげにうたいあげた。

健康を害し喘息、巣鴨の下宿でも咳込んでいたため、1939年、 34歳で帰郷を決意。その当時、思想、信仰、言論、出版弾圧と「『天皇陛下バンザイ!』と最後の一声を唱えて死ぬべし」といった「国家天皇のために命を捧げることは最高の誉れ」とする戦争への道が叫ばれていたため、戦争協力者へ急旋回する作家たちへの憤りもあったと思われる。

この時の心境を「僕は落ち延びてきた。病気と戦争のためにすべての文学的野心をなげうって、もはや二度と東京へ舞い戻るという希望までを完全に失ってしまったとは言い切れないが・・・遠く南海の孤島へ」と残している。後に友人の執筆で「泉芳朗詩集」、詩誌「泉」が出版されたのは、実に芳朗の死から20年後だった。友人たちから愛され詩人として認められていたことがわかる。

泉敏登(芳朗)は二年近くの自宅療養をした後、鹿児島県視学(第2次世界大戦前の日本の国家および地方の教育行政官のこと)であった丸野清司に教員採用希望の履歴書を提出した。教員歴17年のキャリアを持つ泉だったが、自由主義者(国賊)のレッテルが貼られていたため、大島教育事務局は1941年4月「代用教員」の辞令しか出さなかった。ところが丸野視学は学校視察の際に泉を伊仙国民学校教頭に就任させ、その後、1943年10月8日付けで神之嶺国民学校に校長として転勤した。当時の徳之島の様子については、泉自筆の学校沿革(学校日誌)が残っている。

1944年6月末には奄美守備隊(立混成第64旅団司令部)牛島満中将 琉球軍司令部指揮下で7000名の兵隊が徳之島入り。食糧確保、「足手まとい」として、南西諸島からは10万人の疎開命令が出された。沖縄からの疎開船対馬丸、徳之島の武州丸など子どもや高齢者が犠牲者となった。本土防衛の前線基地とみなされた沖縄の次は奄美だった。

1944年10月31日付で沖縄本島守備隊(球3109部隊)に召集された平哲治助教の「殺戮の旅に赴くわれに師(泉芳朗)はたった一言『生きて還れ』と!私は銃撃により足を負傷、入隊した1500名中傷痍軍人として僅か20数名が帰還」という言葉が残っている。さらに平哲治は戦争体験手記に「空襲の際御真影を奉安殿から避難させながら、沖縄守備隊へ入隊する私に『死にどぅ すんなよ(死んではならんぞ!)、この戦に勝ちめはないよ。独裁を良しとする軍閥が国を支配しているかぎり、その国の国民は彼らの命令で命をも捨て去らなければならない。一国の領土を我が家の畑にし、国民を牛馬同様私物化しようとしているのも同然だ、全体主義を国民に押しきせて、戦争をおっぱじめた東条以下日本の軍閥どもだよ。独裁者は一日でも早く地球上から一掃した方が人類のためになる、と僕は思っているよ!』」と泉のことばを残している。

 

4 復帰運動の舞台は奄美へ

第二次世界大戦の敗戦により1947年2月以降、祖国から分離された奄美群島は米軍の支配下に呻吟(しんぎん)し、「集会、言論、出版の自由等の規制」、子どもたちはノートも鉛筆もない学校とは名ばかりの掘っ立て小屋で学習する、 配給物

資や予算配当の不足によるさまざまな物資の不足など、民族の苦悩は筆舌に尽くしがたいものがあった。

泉は、約3年務めた鹿児島県視学(今の大島教育事務所長)を辞して復帰運動にのめりこんでいった。1951年2月、祖国復帰悲願達成のため奄美大島日本復帰協議会が結成されると、泉は推されてその議長に就任し、日本復帰請願署名

運動をはじめとして、断食祈願、本土政府、米国政府との折衝、請願など、先頭に立ち、身命を賭して尽力した。1953年12月25日、祖国復帰が実現し、群島民ひとしくその功績を讃え「復帰運動の父」とたたえられるにいたった。

復帰運動の舞台が奄美へとうつった後の徳之島では、名瀬における復帰運動に連動した形での署名運動や復帰運動がすすめられた。

5 最後に

「アメリカ世(ゆ)」と呼ばれる異民族支配の苦しさを味わった徳之島に2010年米軍基地建設の計画が持ち上がった時は、圧政に立ちむかった犬田布騒動(一揆)・母間騒動(一揆)の民衆の熱、DNAを奮い立たせ、全島あげての米軍基地建設反対闘争の闘いを繰り広げた。逆境に立ちむかった時に生まれる団結、情熱は時代を超えて永遠のエナジーとして受け継がれていると思うし、後生に伝えていかなければならないと思っている。

平成17年からの学校職員・生徒対象の人権同和教育・歴史、島内フィールドワークも今月で170回を超す。人権と平和の思いが届いているだろうか。世界情勢を危惧しながら足下の活動として「子どもたちの輝く平和と未来のために」ライフワークとして続けるつもりです。

 

 

 

 

 

 

〈2010年の基地移設反対闘争〉

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