闘牛文化の歴史

闘牛をその本能と興行に分けて歴史を見ると

鳥獣戯画国宝にも8世紀ごろから京都で角合わせをする牛が描かれている。

また農耕牛として見ると、河原で農耕の疲れをいやしながら牛を浴びせているが

子どもたちは角合わせをさせて楽しんだと聞く。

薩摩藩制時代、代官が奄美島の娯楽を知って(8月15日、9月9日など遊興日)特別席を

設けたりして観戦する様は名越左源太「南島雑話の世界」からも見えるし、「徳之島事情」

の挿絵でもそうだ。このころは入場料は取らず、勝った「名誉」であった。前原口説も一族、集落の誇りが歌われている。

戦後、各集落の広場で幼いころ角合わせを見たものだ。勝ち負けでなく、楽しみだった。

昭和34,5  年ごろは道のわきはトタンで闘牛場を見せまいと覆い入場料を取っていた。子どもたちは隠れて応援団に扮して入場していた。

今は小学生までは無料。

興行として成り立ったのは戦後1960年ごろからではないか。戦後10年たって生活のゆとりも出来たころ。その頃は豪農、大富豪と言われる人たちが自分の名前を「000牛」として戦わせた。名誉である。島の数え歌に今もある「得とらゆりも名とれよ死んだる後にも名は残る」である。