武州丸慰霊の夕べ 

継続することは「深い思い」「より深くかかわること」です。だが私が深くかかわった名城秀時さん、藤村キクさが他界し、そして生存者であった沢津橋勉さんも昨年亡くなった。しかし鹿児島川辺の自宅で「遺志を継ぐ」と固い決意を位牌の前で誓った私は今年も取り組んだ。井之川中学校の生徒の皆さんが平和を誓った。そして協賛に徳之島ユネスコ協会が加わった。手出し、手作りの慰霊の夕べに今年も30余名が参加した。運動会シーズンにもかかわらず。「知って」「伝えること」をライフワークとして2006年から14年。「これまで平和を守ってきたが、これからの若者は平和を作る、時代にある。」と挨拶した。公的機関に委ねるのでなく民衆の思いがあれば平和は築ける。毎回新聞社の方々も取材してくれます。平和を願うメディアにも感謝です。誰かが「何をした」という形でなく、平和を希求する人々の現在進行形でありたいと願うばかりです。「戦争の悲惨さを若者に知ってほしい・・・」名城さんの声が耳に残る。

武州丸取り組みから13年経過

武州丸取り組みから13年経過しました。当時のブログ(現在の前)を見てみますと

 

2006年 12月 11日 (月)
戦跡めぐり 学童疎開船武洲丸

遺族会政野富夫さん(74)名城秀時さん(94)のお話

平和を守る誓い新たに記念撮影をしました。

大和城山登山,この真下に高射砲台の跡がある。

松村省三氏(元教員)戦時中の司令部,慰安所跡など説明
昨年の徳之島遺跡・史跡巡りに引き続き、今年は国内外の北朝鮮の脅威、(ミサイル、核開発)そして「目には目を」非核三原則も危ぶまれる状況の中で「平和学習、戦跡めぐりを計画した。
まず亀津を出発し、さつまの琉球侵攻時における「秋徳湊の戦い」の看板をバス車中から見ながら、語り部として学童疎開船武洲丸遺族会会長 政野富夫さん、名城秀時さんから「昭和19年9月25日トカラ列島中之島沖において、米潜水艦の攻撃で148人が死亡したことが軍の機密事項として隠され、死亡届も昭和40年代までかかった。」遺族の無念さをお聞きしました。
「沖縄の疎開船対馬丸は手厚く戦後補償され、会館も建てられ今後も語り伝えられていくだろう。しかし、私たちは自分たちで33回忌に慰霊碑を建てた。武洲丸の遭難者の遺品は当時県議会会館前に集められた、と聞くがその所在は今も不明である。私たちは老いていく、花を手向けることも今後難しい。願わくば徳之島町で慰霊碑を管理していただければ、と思っている。無駄死に、と思ったりもしたが33回忌のあの時から今日、62年目皆さんのお顔を見て彼らの死がこれからの平和を願う思いに通ずればありがたい、無駄死にではなかった、と思いたい。」
今年、政府は初めて武州丸の遺族を洋上慰霊祭に案内した。しかし遺族は年老いて、政野さんただ一人の参加であった。
天城浅間の旧陸軍飛行場(知覧出発した特攻兵の中継基地)、当部では松村省三さんから奄美守備隊「独立混成第64旅団 鬼塚部隊」の話を聞いた。他に西郷隆盛の上陸地、オキナワウラジロガシの板根を見た。戦跡巡り参加者38名。

MBC 平成と鹿児島

 

「平成と鹿児島」をテーマにMBCニューズナウのキャスター藤原一彦さんが訪れ、天城中学校での「徳之島の歴史~武州丸・戦跡」の授業内容を取材。キャスターについての質問や言葉の正しい伝え方について指導、生徒の質問に応えてくれました。(11月1日放映されました。)

憲法改憲などをテーマとした取材です。戦争の悲惨さ、二度と子どもたちを戦場に送らないそのために何を伝えればいいのか。戦争体験者や夢と希望を絶たれ亡くなったこどもたちは平和を願う。自営、防衛は当然としても戦争を望んでいない。集団的自衛権として他国まで行き、自衛隊がアメリカと共に戦うことは望んでいないはず。純粋に平和を願う行動を続けていきたい。戦争の悲惨さ、理不尽さ、武器輸出で儲かる、軍需産業等が理解できたら平和国家の創造者になるだろう。両論あることは承知しながら判断は未来のこどもたちに委ねたい。

今日は文化の日、日本国憲法についてもゆっくり考え平和を実感したい。

NHK武州丸取材 放映されました!

疎開船武州丸の悲劇から74年目。命日は9月25日だが、平日のため前倒しで土曜日に例年行っている。今回はたまたま私の67歳の誕生日にも重なった。

今年4月25日に逝去された武州丸の生存者「澤津橋務さん」。その意志を継ぎ、伝えていきたい。

平成の年号も最後の年、戦争のなかった「平静」の時代を私たちはどう生き、何を残しただろうか。自然に関してみれば開発と保護、半世紀で変わった世界自然。課題は多い。戦争と平和の視点からみれば、戦争のできる日本「自衛隊を軍隊へ」の構想は果たして「平和維持」だろうか。武器輸出は「平和維持貢献」の美名で国民は納得したのだろうか。農業はTPPは、車の関税で脅され農業で2兆円?の損失と報道されている。カジノは次の世代に何をもたらすだろうか。ストレスがさらなるストレスとなり、社会悪へ発展しないか。

NHK取材の若い人たちが平和を発信する姿にほっとした。「戦争を知らないこどもたち」を歌った私たちの世代が今戦争を伝える時代となった。一方、政府は戦争を知らない世代(国会議員)が軍隊を作ろうとしている。自ら武器を持ち、前線に立たない人たちがー。イラク戦争では奨学資金が州兵の条件で苦学生が武器を持った。貧しい時代その矛先は、外に向けられる。中国は国内の不満が出るとガス抜きで半日キャンペーンを張る、と報道された。軍需産業が拡大され(好景気)、戻れない状態へ突き進んでいないか、懸念される。未来を担うこどもたちの小さな声に耳を傾けてほしい。「武州丸のことを知って、次の世代へも伝えていきたい。平和を守りたい。」(東天城中学校平和の夕べにて)

地域サロン で武州丸からのメッセージ(紙芝居)

地域サロン(高齢者の集うサロン~社会福祉協議会主催)

1944年9月25日徳之島から154名の疎開者が乗り込んだ「武州丸」は中之島沖で米軍の潜水艦バーベル号に撃沈された。0歳児5名を含む77名の乳幼児から児童生徒を含む148名が亡くなった。

夢と希望を一瞬にして打ち消された島の人々。一家から6人が犠牲となった6家族など。

富山丸の撃沈の模様を目の当たりにした福さんは「船が割れた!(魚雷攻撃で真っ二つ)戦争は思い出したくもない、つらくて悲しい」と語りました。丁度この日はMBCラジオの全国放送番組制作のために訪れた七枝さんの取材もありました。

戦争を経験していない人も「聞き取って、語り継ぐことはできる。伝えることはできる。平和は当たり前でなく、守り、育て、作るもの。」

 

疎開船武州丸の操舵手 澤津橋勉さん逝去の報に接す・・・

先日、澤津橋勉さんの奥様からご逝去の電話をいただいた。4月25日に亡くなったとのこと。謹んでお悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈りします、同時に澤津橋さんの平和のメッセージをこれからも語り継ぐことをお約束します。

毎年9月25日の慰霊の日にはお電話をいただき、遺族や戦争のない平和祈願のことばを参列した人々に紹介した。

2008年5月22日丁度10年前に川辺の澤津橋勉さん宅を訪ねた。1944年9月25日 中の島沖で米潜水艦に轟沈され、徳之島の児童生徒、母親、祖父母 148名が亡くなった。当時澤津橋さんは操舵手として(16歳)戦時中敵潜水艦の魚雷攻撃を避けながらの航海をしていた。台湾から食料を積み船団を組んで貨物船としての役割を担っていた。古仁屋港で貨物を下ろして、疎開船として軍属や看護婦、疎開者を乗せて鹿児島へ向かった。夜9時に澤津橋さんは交代した。その直後2発の魚雷攻撃で武州丸は轟沈した。

「1000名を超す人が乗船していたと思う。」と証言した。「武州丸」の最期を知る生き証人が亡くなった。「戦争」お互いの正義がぶつかり合う。「戦争に正義なんてない」とイラク戦争帰還米兵が沖縄で語っていた。

「戦争を知らない子どもたち」の世代が戦争を語り継ぐことをしないと、「また来た道を戻る」恐れもある。「むしゃくしゃして、誰でもよかった!」新幹線での殺傷事件。秋葉原の事件を思い起こした。「物はなくても心のつながる社会」を回顧しつつ、今を生きたい。

武州丸からのメッセージ 犬田布小学校家庭教育学級

9日 犬田布小学校家庭教育学級で「学童疎開船 武州丸からのメッセージ」について講演する機会をいただきました。紙芝居を傍らにおいて,パワーポイントで写真も併せて紹介。感想には「子どもを育む,そのためには女性,母親が平和を目指し子どもを守っていく。熱いメッセージが伝わってきた。」「戦争の悲劇を知ること,そして伝えること。命の大切さを改めて考えさせられる貴重な時間でした。」。等々,ほとんどの人が疎開船武州丸で犠牲になった徳之島の学童,母親,祖父母,そして本土への帰還兵,看護婦などのことは知りませんでした。伝えることの営みを,より積極的に継続する必要性を感じました。

疎開船武州丸慰霊の夕べ 73回忌

疎開船武州丸の73回忌 慰霊祭が今日、夕方 なごみの岬 「武州丸慰霊塔」であった。武州丸と平和を考える会 12回(単独主催7年目)。主宰者(幸多)挨拶の後,澤津橋務氏(92)の電話メッセージを紹介。

いきゅんDOの渡辺さんの挨拶。井之川中学校7人の生徒は、武州丸死者の無念さ「犠牲者には1歳にも満たない5人の赤ちゃん,から小中学生77名。戦争から逃がすために疎開船に乗せたのに,家族が離ればなれになっても,この子の命さえ助かればいい,と願って乗せたのに・・・。どんな理由があろうとも戦争をしてはならない真実を,多くの人に伝えます。」と平和を守る決意、暗闇が安心な場所(防空壕)であった時代に戻ってはならないことをアピールしました。

1944年10月10日,那覇大空襲,南西諸島,徳之島が初空襲の日。

米田正英さんの家族5名は疎開途中,加計呂麻島沖で米軍戦闘機グラマンの攻撃にあいました。妹二人が即死,「このような戦争がないように願い,妹たちを供養していきます。」と,言葉少なに語りました。

参加者の声は「今がまさに戦争前になってきたね。」「昔の防空壕は空襲警報解除で外に出られたが、核戦争のシェルターはそうはいかない。」「国民を戦争に向かわせるのが今の政治だね・・・」「中国,次は北朝鮮,次々に敵国を作り,同盟国が包囲する」」「窮鼠猫をかむ,追い詰めたら戦時中の日本,一億玉砕!ではすまないね。核戦争,死なばもろともに・・・日本が狙われるのは必至だね。怖いね」「国民がしっかりしなくてはね」「未来はこどもたちのものだから平和を維持したいね」など等でした。