ふれあい農園に芋植え付け「収穫が楽しみだね!」

「子どもたちに芋植えをさせたい」北区子ども会育成会の声を受けて畑を探していたところ「里芳則さんの畑が空いている」とM氏から連絡を受けて、その親族(私の息子の友人へ)へ連絡を取り了解が得られた。早速、草刈りを一人で始め終了。翌日は福岡輝男夫妻が草を焼き、トラクターで耕してくれた。さらに翌日耕運機で畝を取り、植え付けの準備完了。6月10日 日曜日育成会長の親族が芋づるを持ってきた。高齢者8人と育成会、教員など総勢29人で植え付けた。だが芋づる不足で半分は翌々日に私が阿権から準備し、4名の高齢者女性部で植え付け、たっぷりと水かけもした。

植え付けの前には、アリモドキゾウムシ対策の農薬も購入し、散布・混ぜて植え付けました。

これからは植え付けに参加したこども、若い親たちには多忙のため管理が難しいので地区民(私も含め有志)でやるしかない。区民お互いに頼り頼られる関係がうれしいですね。

植え付け・収穫という共同作業をすること「ふれあいの意義」を肌でわかってくれたらいいと思う。「みんなでたのしく汗を流して、」。そのような場を作ってあげることが大人にできること、大切な事ですね。おじいちゃん、おばあちゃんと孫たちの共同作業。見てると心が和みますよ。

疎開船武州丸の操舵手 澤津橋勉さん逝去の報に接す・・・

先日、澤津橋勉さんの奥様からご逝去の電話をいただいた。4月25日に亡くなったとのこと。謹んでお悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈りします、同時に澤津橋さんの平和のメッセージをこれからも語り継ぐことをお約束します。

毎年9月25日の慰霊の日にはお電話をいただき、遺族や戦争のない平和祈願のことばを参列した人々に紹介した。

2008年5月22日丁度10年前に川辺の澤津橋勉さん宅を訪ねた。1944年9月25日 中の島沖で米潜水艦に轟沈され、徳之島の児童生徒、母親、祖父母 148名が亡くなった。当時澤津橋さんは操舵手として(16歳)戦時中敵潜水艦の魚雷攻撃を避けながらの航海をしていた。台湾から食料を積み船団を組んで貨物船としての役割を担っていた。古仁屋港で貨物を下ろして、疎開船として軍属や看護婦、疎開者を乗せて鹿児島へ向かった。夜9時に澤津橋さんは交代した。その直後2発の魚雷攻撃で武州丸は轟沈した。

「1000名を超す人が乗船していたと思う。」と証言した。「武州丸」の最期を知る生き証人が亡くなった。「戦争」お互いの正義がぶつかり合う。「戦争に正義なんてない」とイラク戦争帰還米兵が沖縄で語っていた。

「戦争を知らない子どもたち」の世代が戦争を語り継ぐことをしないと、「また来た道を戻る」恐れもある。「むしゃくしゃして、誰でもよかった!」新幹線での殺傷事件。秋葉原の事件を思い起こした。「物はなくても心のつながる社会」を回顧しつつ、今を生きたい。

新年度、初の投稿です!

4月に入って、自治会役員会があった。そこで北区の駐在員として推薦され、翌日9日から駐在員として業務がスタートした。

自治会の総会は30日、ここで自治会会長を拝命。高岡町長も挨拶、懇親会まで参加し区民へ自治会発展に向けアドバイスをしてくれた。

四月には高齢者クラブ、子ども会育成会の新入生歓迎会、女性連総会が行われた。

5月6日はふれあいグラウンドゴルフ大会を実施した。児童生徒は連休の宿題に追われて少なかったが、丁寧に教える高齢者と笑顔で返す子どもたちの微笑ましいふれあいが実現できた。

5月13日 母の日 大運動会が行われ、笑いの渦に包まれながら競技は進み6位。怪我もなく、楽しい母の日であった。20日はボランティア作業だが雨天の中、晴れ間を見ての実施。高齢者の方々の集落へ寄せる「思い」が痛いほどわかった。

20日のボランティア作業。7時前から作業を開始。あいにくの雨天だったが晴れ間をみながら作業を続けた。区民総出による、自主性を育て見返りを期待しない真のボランティアに育つのは簡単ではない。

私は、というとこれまで通りラジオ体操の前後に通りの清掃。公民館へ足を運び鍬を持っていき、除草作業。桜の木の周囲を掃除すると「アリ」の巣。幹の中心部は空洞。スミチオンを買い消毒した。年寄りを大切に、子どもの育成にも尽力を要す。集落内の各種団体との協力関係。

 

執行部は副会長と事務局長(書記・会計)の三人。そして班長さん、専門部長。

16日は東天城中1年生の恒例フィールドワーク。

狂犬病注射の案内やイベント情報の放送。そして公民館の利用団体(小中高校、PTA等)との友好的かつ維持管理の強化。課題は山積、だがやりがいのある自治会活動である。

金婚式は 該当者(夫婦)が2組。大山 寛司さん、鮫島隆茂さん夫婦。島外旅行ということで25日は不在。高齢者クラブでは有志による金婚式を祝っての懇親会を実施いたします。

 

 

自然野生ふじの花と見方で変わる世界観

島で唯一自然の「藤の花」が見られる。

車でさっと、走ってしまえば見過ごすが白井線の伊仙町徳之島町の境界で4月初旬から藤の花が咲き誇っている。これからゆっくりと島の自然に触れたいと思っている。徳洲会病院では私がわざと東アジアの地図をひっくり返して、先生方に講師として呼ばれる際に「琉球弧とアジアのつながり~海洋民族」を話していたが、なんとその地図が掲示されていた。ヤポネシア、琉球弧が作る湖のごとき東シナ海。角度、立ち位置を変えれば歴史や世界観が変わるのです。

先ほど、「東アジア交流地図」を検索すると「佐渡市がおもしろい地図を出しました。佐渡を中心として環日本海圏を描いた地図です。北を左、上が東となります。こうしてみますと、対岸諸国がずいぶん近くに見えます。日本の歴史を振り返りますと、この湖のような日本海は交流の海でした。中国の漢書などには1世紀あたりからの交流が綴られていますから、日本の歴史の中にあっては日本海側こそ歴史のほとんどの時代で表の海であったことがわかります」と説明があった。全く思いが一緒でうれしかったです。

学校勤務に終わりを告げる春 43年間・・・

知名町上城小学校に赴任したのが1975(昭和50)年。和泊中学校8年、奄美大島教育会館専従3年、亀津中学校9年、伊仙中学校7年、天城小学校7年で定年退職。再任用鹿浦小学校5年、犬田布小学校1年でした。激動の昭和史から平成の時代をかけてきました。本務は当たり前ですが、社会教育活動(子供会、西目スポーツ少年団設立、亀津中区文化財少年団)、S54和泊中学校卓球部設立、H2亀津中学校女子卓球部の設立、南三島中学校新人卓球大会設立等卓球への情熱。伊仙中学校の県大会優勝、第1回全国中学校選抜卓球大会県代表。三町小中高人権同和教育研究会会長6年、徳之島郷土研究会、武州丸と平和を考える会代表など等。地域活動を積極的にやってきた、と自負している。未来はこどもたちのもの。「こども笑うな来た道じゃ、年より笑うな行く道じゃ。来た道、行く道一本道」。残りの半生をこどもたちの輝く未来へ、高齢者が生きていてよかった、と思える社会実現に貢献、寄与したいと思います。応援今後ともよろしくお願いします。共に、頑張りましょう。

送別の季節到来・・・

別れの季節,昨年三線愛好会の会員として警察署長という重責の合間に研鑽を続け島唄「朝花」や琉球奄美のポップスまで弾きこなせるまでになった有村署長が栄転となった。一昨日の新聞発表から一夜明けた昨日ホテルニュー西田の居酒屋「今年も豊作」で送別会。自分たちで歌って踊って,心に思い出に残る送別会でした。おーぼらだれん,おーぼらだーに。ご活躍を祈っています。

武州丸からのメッセージ 犬田布小学校家庭教育学級

9日 犬田布小学校家庭教育学級で「学童疎開船 武州丸からのメッセージ」について講演する機会をいただきました。紙芝居を傍らにおいて,パワーポイントで写真も併せて紹介。感想には「子どもを育む,そのためには女性,母親が平和を目指し子どもを守っていく。熱いメッセージが伝わってきた。」「戦争の悲劇を知ること,そして伝えること。命の大切さを改めて考えさせられる貴重な時間でした。」。等々,ほとんどの人が疎開船武州丸で犠牲になった徳之島の学童,母親,祖父母,そして本土への帰還兵,看護婦などのことは知りませんでした。伝えることの営みを,より積極的に継続する必要性を感じました。

石巻専修大学教授 新福悦郎先生来島!

一昨日3月1日、宮城県石巻市 石巻専修大学教授 新福悦郎先生が来島。犬田布小学校の蜂須賀先生との交流だが、なんと30数年前奄美大島教職員時代からの知人だった。一瞬にして昔に戻り、昼からのフィールドワーク案内となった。伊仙町を中心に犬田布騒動からメランジュ、琉球墓、旧奉安殿、カムィヤキ、歴史民俗資料館、トマチン遺跡、なごみの岬では「富山丸の3700余名の戦死者は東日本大震災石巻の死者の数に匹敵するね・・」、学童疎開船武州丸の事と紙芝居。急ぎ足で動いてお昼から6時45分まで。夜は今年も豊作で島唄三味線。「徳之島」を東北の地で発信してくださいね。うれしい楽しい懇親会でした。