線刻画シンポジゥム 

pic_0326pic_0269

11月13日天城小学校で戸森の線刻画シンポジウムがあった。いろんな見地から報告がなされた。具志堅 亮氏天城町で実際に調査担当している。その思いが述べられた。船の図が正確に描かれている。(松木 哲氏は全く性格ではない。帆がこんなにあれば船は転覆する。丸木舟も底はまっすぐであるべきだが丸くなっている。と反論)。線刻画に設計を求めるのは無理があるようだ。また歴史的に薩摩侵攻の時代に残そうとしたと考えられると永山修一氏は語るが、なぜ鉄砲は出てこないのか、の質問に「書く人の自由では・・」。第三線刻画の土壌分析結果が17、8世紀と出たための歴史背景だ。木下尚子氏は矢先の形から狩猟目的、殺傷目的そして逆▽の矢先もあり14世紀ころ沖縄本土で出土している。なぜか?と投げかけた。私見だが、琉球の歴史に関心があれば三山の統一(1429年)当時、南山、中山、北山の戦いがあり沖縄では牛馬等の骨が武器として矢先に使われたことは容易に想像できたはずだ。またこの当時はキコエノオオキミを頂点とするノロによる祭政が行われていたことから、祭祀の場として、造船にかかわる航海の安全祈願等による悪霊を排する弓矢であった、とする私の考えは琉球弧の歴史ロマンとしてどうだろうか。船の設計図が下手であるとする松木氏のダメ押しに対して私はノロが指示し、また自らの作品「線刻画」であれば下手であっても納得できる。関係者の熱心な討論だが、シマンチュの関心事は古くから「舟下ろし谷」「船田」とよばれていたことから、大木で作られれるくり船からイカダ、小さなサバニなどである。大きな帆船を作っていたわけではないだろう。ゆるやかに歴史ロマンとして線刻画をとらえ。描いてみることだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください