
他者をリスペクト(尊敬)すれば戦争は起きない。足下である地域の繋がりなくして世界平和も実現不可能だと思う。だが人は「旨味」を追求する。エコツアガイドもお金を追求すれば島の宝が味気ないものに見える。そこに住む人が足元の文化自然を語ればいいと思う。鍵を閉めて保護の名の下で島の人から世界自然遺産を見えにくくしている、とシマンチュは言う。誰のための自然か、また誰が守ってきたのか。金もうけのためではないはずだ。島の景観をシマンチュのために残せるのか。今問われている。
2025徳之島町民体育祭
戦後80年 武州丸慰霊平和の夕べ
2006年12月11日戦跡巡りの中に 武州丸慰霊平和の夕べを実施。故 名城秀時さん政野富雄さん遺族から当時の事を知った。
20回目 世界情勢は戦前・戦時中ともいえる状況下で武州丸慰霊平和の夕べを実施し戦争と平和を語り、知って、そして伝える。
このような同じことの繰り返しを続けないと、危い人間の所業。中国は731部隊を国民に訴え恨み、報復ともいえる教育をする。
「戦争は人の心の中に生まれる、心の中に平和の砦を築かなければならない」ユネスコ協会の憲章である。妬み恨み、差別しない教育。
疎開命令のもとに撃沈された。1944年9月25日武州丸悲劇の前に、8月22日対馬丸、6月29日富山丸 国は全てを隠した。最近は国の名のもとに日米訓練が強行される。住民ではどうしようもない、「あの悲惨な出来事を繰り返さない、安らかに眠って下さい」と御霊に約束報告していいのだろうか。国民保護法案の下、いつ脱出するかわからない。ノアの箱舟の定員は、対象は?不安な時代に生きている。
あとは戦争を知らない政治家に命をゆだねる、ことになるのか。
ユネスコフィールドワーク徳之島町案内
新年 1月は行く 2月は逃げる~
川畑眼科医院 7年ぶり
全国に知ってもらえた「もう一つの学童疎開船 武州丸」
足掛け 18年 奄美の地元新聞には毎年掲載された武州丸 慰霊・平和の夕べ。今年は共同通信社の記者も来島、小さな島の少ない(対馬丸と比較して犠牲者の数)疎開者、戦争犠牲者。小さな草の根平和運動として「武州丸と平和を考える会」を全国に発信してくれた。当時、高齢化する遺族の方名城秀時・政野富雄さん(2名)に許しを得て合同慰霊祭を始めた。その後 故 藤村キクさん遺族を知り、訪ねての参列(2014年)もあったが遺族無の武州丸慰霊・平和の夕べが今日まで続いている。徳之島ユネスコ協会の後援、徳之島地区教職員、高齢者クラブ有志の賛同のおかげで犠牲者の声は伝えられている。「広島全国教育研究会」でも報告した。今の子どもたちに「夢・希望を奪った戦争」の悲惨さ無念さ悲しみを伝える営み。コロナ禍でも絶やすことなく実施した。「いつか来た道に」戻ることなく、世界の子どもたちの未来に平和を、足下の平和を構築するための運動は継続される。大人は私利私欲を捨て、平和のバトンをタスキをつなぐ責務がある。その使命を常に持ちたいものだ、と思っている。
「命ど宝」「優しさを武器に変えて」オリンピックでもスポーツ界は相手をリスペクト(尊敬)する時代です。世界平和を目指しましょう「我が家から、地域から、そして世界へと」
ふれあい農園 ジャガイモ植え
石井清吉 奄美徳之島の救世主 子孫来島 大島地区高校社会科研修会
11月22日大島地区高等学校社会科教師の研修会で70分講演でした。徳之島を立ち位置とした自然、歴史、戦時中、米軍統治多くを知ってもらいました。米軍統治下の奄美人の 「ナワ行き」「人身売買」復帰運動成し遂げた後の復帰にまつわる沖縄在住奄美人の苦悩差別人身売買まで。
昨日 石井清吉ルーツ訪ねる 子孫 石井明男 親子とお会いしました。大島地区高校社会科研修会に同席の許可をいただきました。
石井清吉さんは母間、亀津、浅間で石井塾を開き三方法運動の精神 自由民権運動を説いています。
当時のエピソード
一八九〇(明治二三)年 亀津村へ転居
- 農家扇動として警察へ連行
- 橋口警部補の尋問にてきぱ、きと答えしかも「君たちは」と農家の状況を知らないと指摘。
- 三方法を説き、農家の生活改善と共に、負債償却は裁判の問題である警察は干渉できない問題、・・警察も丁重にお茶を出した。
- 石井氏渡島して「三法方の精神」を普及し「人間は平等なり、島民は内地人に対して余りに卑屈なり。内地人島民対等の地位に於いて応対すべきものなり。西欧諸国の例は斯くかくなり。近く実施される帝国憲法の精神も黙々なり」と、あたかも小学校の先生が教えるがごとく懇々と「四民平等論」を説いて島民の覚醒を促し、内地人の跋扈(ばっこ)を掣肘(せいちゅう)したるを以て、ここに初めて島民伸長の機運を生み、この思想、年と共に発展し、同時にかの不当負債揉み消しは、島民経済振興の端を開き、「大島文化」の基礎を作るを得たり。これ実に「三法方」の恵沢なり。(浅松宮啓「大島の恩人」月刊誌「奄美大島」1928~29)
- 浅間・岡前集落
- 十数家族を率いて種子島へ入植
- 1924(大正13)年5月3日 67歳
- 弟の清八が看取り遺骨を三重県小俣町生家
平和学習 面縄中学校2年生~感想文から
大和城山249m 指令所から空港 港を展望 トーチカ 急な階段を上る。今はきれいに整備された階段だが戦時中はどんな思いで険しい山谷を兵隊さんは歩いただろうか。秋利神川から運ばれ作られた堤防、車もなく島人の徴用・郡内から4000名以上の人が集められ馬、人力で築かれた堤防。昭和20年2月与論島を出帆した枕崎水産高校の練習船 開聞丸は撃沈され24名の方が犠牲になった。
特攻隊慰霊碑、忠魂碑、肉弾三勇士 奉安殿いずれも「天皇陛下万歳」の教えで若者が命を捨てた。戦跡を歩いて子どもたちが何を感じたか。グローバルな視点で「戦争反対」を訴え平和を維持してもらいたい。
高校の先生が話した「子どもたちはTVからの映像でも今の戦争は他人事であり反応がない」。
いつか来た道に戻ってはいけない「防空壕の暗闇が安心安全な場所であってはならない。」
中学生の真剣なまなざし、「平和」をきっと守り続けてくれるはずだ、この戦跡巡りは「平和構築の歩み」と自分に言い聞かせている。
大和城山の登山、旧指令所跡に平和の砦を築きたい。
19日郵送で感想文が田中先生から届き、子どもたちの受け止め感性の豊かさに感動、さっそく電話して「感想文のお礼」を伝えた。部分的だが全員の声を紹介する。
「大和城山に登って、頂上まできつかった。指令所その他施設が多くがあったこと知る」「防空壕で暗いところが安全な時代」「暗闇で声を出せなかった沖縄、子供の泣き声 窒息死させた」「恐怖心に立ち向かっていた島の人 強い生命力」「終戦が㏢遅れたら徳之島が攻撃目標だった。」「忠魂碑 特攻隊慰霊碑 肉弾三勇士 死んで祀られ 生き残ったら卑怯者だった」
「昔 徳之島にも戦争があった この事実をしっかり受け止め同じことが繰り返されないよう 学んだことを心に残していきたい」「今まで自分には関係ないことと思っていたが・・・」「戦争に目を背けていたが、忘れてはいけない、向き合って語り継がないといけない」「奉安殿教育勅語と天皇陛下の写真(御真影)」「多くの人の犠牲、忘れない 空港整備に徴された島外の人の犠牲者」「教科書に載ってない学習ができた」
「悲劇が二度とないように平和な社会づくりをしていきたい」「戦争を経験していないから分らないでなく理解し知ることが大事」「戦争のない世界にしていきたい」「次は私たちが残して(伝えて)いきたい」「多くの事学んだ大切な事 家族知人に伝えたい」
今の若者は平和な時代を当たり前と思っている。などというのはおかしいです。知らないから行動に移せないだけです。この子たち島の戦跡を目の当たりにして戦争と平和を体感しました。世界平和をも訴えています。
修学旅行で沖縄をやめて、本土志向(北)だが、世界自然遺産、気候文化を共有し戦争さえも危機一髪(終戦3日後は徳之島アイスバーグ作戦)で回避はできた徳之島。
最近の国際情勢から今また南西諸島が危い状況下にある70%米軍基地存在する沖縄は兄弟島であることを忘れてはいけない。




































































