11月23日徳之島町文化祭で三線愛好会結は意見口説を発表した。島の伝承する島唄の一つです。沖縄から伝わった十番口説きの徳之島バージョンです。新しいユニフォームです。襟を更につけてオンリーワンのユニフォームになりました。11月24日忘年会 楽しい歌と踊りで5時間もの忘年会!良かった来年も頑張りましょう。
徳之島町文化祭・書き損じはがきチャリティーコンサート(天城町)
久しぶり三線愛好会仲間帰省
徳之島町地区対抗駅伝大会!北区5位 メンタルと筋持久力
第7回地区対抗駅伝大会(平成の初期は駅伝大会が年代別で行われていた~私も神之嶺小入り口県道から当時のチップ工場・今のアートサンポウ前中継地点の坂を走った~が道路工事で中断スポーツ大会へ移行、再び小中高青年中心に復活)は11月10日12時花徳小学校で開会式が行われた。
必勝を期して記念撮影。惜しくも上位入賞はできなかったが年間通して中距離を走っていない子どもたちです。善戦健闘しました。駅伝は己との戦いです。孤独です。しかし走った人にしか味わえない達成感と次頑張ろうという闘志が漲るスポーツです。私も沖永良部フリージヤマラソンでは子どもと5キロ・10キロコースを走ったり楽しみました。青年時代から亀津中学校の持久走大会(9年間で7回走った)48歳まで中学生と競いました。コース、呼吸の仕方・・・選手の皆さん、お疲れ様でした。
スポーツでその後も卓球部では2キロ走ってから卓球練習に入りました。メンタルの持久力はやはり筋持久力とバランスよくなければ、との思いでした。県大会優勝(1999年度伊仙中女子)・全国選抜大会出場は毎日の2キロノルマからでした。
ふれあい農園。落花生の収穫・除草
富山丸遺族、慰霊の旅で語る機会
北区第1回カラオケ大会
闘牛文化の歴史
闘牛をその本能と興行に分けて歴史を見ると
鳥獣戯画国宝にも8世紀ごろから京都で角合わせをする牛が描かれている。
また農耕牛として見ると、河原で農耕の疲れをいやしながら牛を浴びせているが
子どもたちは角合わせをさせて楽しんだと聞く。
薩摩藩制時代、代官が奄美島の娯楽を知って(8月15日、9月9日など遊興日)特別席を
設けたりして観戦する様は名越左源太「南島雑話の世界」からも見えるし、「徳之島事情」
の挿絵でもそうだ。このころは入場料は取らず、勝った「名誉」であった。前原口説も一族、集落の誇りが歌われている。
戦後、各集落の広場で幼いころ角合わせを見たものだ。勝ち負けでなく、楽しみだった。
昭和34,5
年ごろは道のわきは
トタンで闘牛場を見せまいと覆い入場料を取っていた。子どもたちは隠れて応援団に扮して入場していた。
今は小学生までは無料。
興行として成り立ったのは戦後1960年ごろからではないか。戦後10年たって生活のゆとりも出来たころ。その頃は豪農、大富豪と言われる人たちが自分の名前を「000牛」として戦わせた。名誉である。島の数え歌に今もある「得とらゆりも名とれよ死んだる後にも名は残る」である。
島民劇 「この町で」
島民劇「この町で」を鑑賞した。
久しぶりに帰ってきた娘が泥酔して、彼氏がいることを打ちあける。父親(北区の保久幸仁さん)は、可愛い娘を離したくない。
苦悩する父親だが周りの青年家族がサプライズ結婚へ。おじいとおばあ。持病をもつばあちゃんが倒れる。過去の思い出。
出会い、別れ、井之川の夏目おどり。我が家で死を迎える~孫の誕生。ミュージカル風な演出、シマンチュが演じる。赤土文化が戻ってきた。戦後米軍統治下の中で芽生え育った赤土文化。それは各集落(シマ)にあった。
金をかけず、島の青年たちが時代劇や犬田布騒動を演じ「日本復帰」さえも勝ち取った、不屈の明星の劇団が島々にあったと聞く。
島民劇を「わきゃシマ劇」に育てたいものだ。「わきゃシマ物語」として。



















































