米軍基地移設反対 命のタスキリレー 1 (写真の無断転用禁止)

あれから10年、基地移設問題は辺野古に移ったが私たち徳之島を

「徳之島は兄弟島(キョウデージマ)」と徳之島基地移設に反対した沖縄の人々に私たちはどう向き合えば良いのだろうか。

中国を脅威とし、自衛隊の誘致と軍備拡張、増強する政府。ミサイル基地「奄美」大島。

2010年8月7日 夕方4時   伊仙町義名山公園をスタート。高齢者から子ども達へ。闘牛も参加、車いすの親子、夜がくれても命のタスキリレーは続く。

76年を迎える9月25日慰霊の日 武州丸からのメッセージ

風化させてはいけない、2006年以来伝え続けてきた学童疎開船「武州丸」。ゼロ歳児から12歳までの学童77人の魂は今も海底で眠りにつけず、今の国際情勢を懸念・心配していることだろう。

一触即発とまではいかないが、未だに引きずる韓国・中国の太平洋戦争時の怨念。心を開いて8・6,8・9原子爆弾の悲劇を平和運動として展開する日本人。再び戦場に子どもを送るな!の思いがある。

遺族が高齢化して遺族会が解散する。原子爆弾の健康手帳を持つ人の平均年齢が83歳。

求められているのは遺族から聞き取りをして次世代へ繋ぐ若者たちの行動だ。

誰かがやればいい、ではないはず。聞いて知って、悲喜を共有し、伝える行動がほしい。「戦争を知らない子どもたち」が流行った頃、なぜかこの唄が遠い過去のことだと思っていた。しかし今もそれは同じで何かをしなければ、伝えなければ50年前の自分と変わらない。

「過去に目を閉ざすものは未来に対して盲目となる」ワイゼッカードイツ大統領の言葉が35年前と同じく私の耳に聞こえる。

「戦争と平和」子ども達は知りたがっている、「なぜ戦争は起きたの?ヒロシマ・ナダサキ、沖縄戦。徳之島では?」それを伝えるのは大人の責務。しなければ罪でさえある。

 

富山丸遺族、慰霊の旅で語る機会

11月4日故「木下成雄」 さんご家族が熊本から祖父の慰霊に来島。早朝7時20分から富山丸轟沈の模様を当時の目撃者名城秀時さんの回顧、また漂着した200余を荼毘、海岸で火葬したSさんの証言を語った。

さらに徳之島と特攻隊、戦艦大和の最期の模様などを語った。娘が熊本に嫁いだ私には、今回家族で来島され、徳之島とつながるご縁を大事にしたいと思います。

「平和を作る時代」であることを若いお孫さんには託したいと思います。再び過ちを繰り返さないことを。

東天城中学校フィールドワーク 5/16実施

徳之島を知る、自然も文化も歴史も戦跡から人権・平和教育もすべてを伝えたい。毎年実施する8年目だろうか。継続することの大切さを知る教員がいる限り「人権・平和」は徳之島の歴史を通して学べるはずだ。感じてほしい、先祖の汗を、地を這い歯を食いしばって今の世に「生」をリレーしたあの逞しさを。「島を誇れる子どもたちに育ってほしい」それは過去を隠すことではないはずだ。母間騒動、犬田布騒動の歴史から「死を賭して同朋を見捨てない、正義と団結」。これからも伝えたい。

疎開船武州丸の操舵手 澤津橋勉さん逝去の報に接す・・・

先日、澤津橋勉さんの奥様からご逝去の電話をいただいた。4月25日に亡くなったとのこと。謹んでお悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈りします、同時に澤津橋さんの平和のメッセージをこれからも語り継ぐことをお約束します。

毎年9月25日の慰霊の日にはお電話をいただき、遺族や戦争のない平和祈願のことばを参列した人々に紹介した。

2008年5月22日丁度10年前に川辺の澤津橋勉さん宅を訪ねた。1944年9月25日 中の島沖で米潜水艦に轟沈され、徳之島の児童生徒、母親、祖父母 148名が亡くなった。当時澤津橋さんは操舵手として(16歳)戦時中敵潜水艦の魚雷攻撃を避けながらの航海をしていた。台湾から食料を積み船団を組んで貨物船としての役割を担っていた。古仁屋港で貨物を下ろして、疎開船として軍属や看護婦、疎開者を乗せて鹿児島へ向かった。夜9時に澤津橋さんは交代した。その直後2発の魚雷攻撃で武州丸は轟沈した。

「1000名を超す人が乗船していたと思う。」と証言した。「武州丸」の最期を知る生き証人が亡くなった。「戦争」お互いの正義がぶつかり合う。「戦争に正義なんてない」とイラク戦争帰還米兵が沖縄で語っていた。

「戦争を知らない子どもたち」の世代が戦争を語り継ぐことをしないと、「また来た道を戻る」恐れもある。「むしゃくしゃして、誰でもよかった!」新幹線での殺傷事件。秋葉原の事件を思い起こした。「物はなくても心のつながる社会」を回顧しつつ、今を生きたい。

今日は何の日?輸送船富山丸撃沈1944(昭和19)年6月29日 徳之島)

1944年6月29日終戦の1年前、 沖縄戦に向かう輸送船富山丸には4000名の兵隊と燃料(1500本のドラム缶)を積んでいた。73年前の早朝7時30分ごろ徳之島亀徳沖、約3Kmで悲劇は起きた。地元で徴用された人々が浅間の陸軍飛行場へ向かう時間帯、亀徳沖を南下する日本海軍の船団。彼らは「鬼畜米英に我が日本海軍が鉄槌を下すのだ!」と眺めていた。そのとき、大爆発で輸送船富山丸が黒煙に覆われ船団はバラバラになった。風は海から島にむかって吹いていた。重装備をした船底の兵は海底へデッキへ飛び出した兵の多くが島を目指して泳いだ。しかし、次々とドラム缶のガソリンンへ引火誘発され、兵隊の多くが火の海で戦死。3704柱と記されている。(参考までに数年前 沖縄 平和の礎に富山丸の戦死者も刻印)

「この道はいつか来た道」、共謀罪によって戦争反対、平和を訴える人々は顔写真、録音という監視によってあとずさりしないだろうか。戦前回帰は始まっていると感じる。戦争を知らない私が感じる。日本は国際平和、協力の名の下で武器の後方支援、武器輸出という商売もできる。自衛隊(国家公務員選挙中立,公選法上の地位利用による選挙運動禁止規定の適用対象)を選挙に利用する防衛大臣、女生とは思えない。与謝野晶子「君死にたまうことなかれ」であってほしい。

7時28分今から73年前。黙祷~。(川畑眼科入院中~明日退院です!)

東天城中学校、井之川中学校フィールドワーク

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東天城中学校、井之川中学校1年生の歴史、自然フィールドワークを実施。徳之島を知りたい!先生の思いに応える熱心な生徒たちです。雨の中アマミノクロウサギの爆発的なフンの多さに感動!「こんなにいっぱいのフンを見られるなんて、君たちは幸せ者だ!」。美しい自然、初めての場所。ハートマークのサンゴ礁ににっこり、メランジュで地球の歴史を学ぶ。オキナワウラジロガシのばんこん「板根」、戦いのない島で、弾圧に負けなかった母間・犬田布騒動、民衆の歴史も語った。戦跡を訪ねて平和とは戦争とは、暗闇が安全だった戦時中。感想文を読んで感性のすばらしさに私もまた感動。

徳之島歴史案内 天城町北中学校

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昨日、天城町北中学校の1年生30名と先生方の徳之島歴史探訪案内をした。世界自然遺産を目前にしている徳之島を知る。特に自然と共に歩んだ先祖の生きざまを紹介しながら。豊かな島、自然、薩摩圧政の時代、戦争と平和。テーマがいっぱいの徳之島。観光コースにない徳之島。「この子らに伝えることが未来の徳之島、世界の平和につながる」という思いを込めて語った。