10年前熊本宇城市の研究会に講師 戦時中の疎開多くは 鹿児島県外だった?なぜ

2013年 8月 26日 (月)

熊本県宇城市平和教育研究集会

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奄美の歴史、平和教育実践を知りたい!紹介があった、ということで熊本県宇城市松橋に行った。教職員の平和教育研究集会である。まず「徳之島への米軍基地移設反対闘争」を30分のビデオで語った。そしてここまで徳之島が戦えたのはなぜ!?の問いに応えるために奄美・徳之島の歴史をあまんゆ、中世の時代、海民の活躍や島んちゅ(島人)の動きとカムィヤキ文化圏、黒潮文化など島国や諸島が狭い考えなど劣等感でなく「海」が島々を結び海民が重要な役割を果たしていたこと。鹿児島県人であって、歴史、文化も気候も異なる奄美。さらに植民地であった時代の誇りは薩摩的「近代化、明治維新」でなく「差別に耐え生き抜いた歴史」が誇りである、違いなどを語った。そして今、そのことを胸を張って発信できる時代であることを。
 参加者からは「沖縄戦で父が亡くなった、遺骨収集もできなかった。6・23そして自分の父の命日との違い」、「親族から疎開者は宮崎や大分、熊本が多かった、と聞いた。なぜ?」など。特に疎開は親戚がいる人は別として宮崎など鹿児島県本土は少なかった、と他の著書でも知っていただけにびっくりだった。薩摩圧政時代の差別と偏見は戦時中もあった。
夜は役員の皆さんと懇親会。宇城市は広くて2時間かかってきた人もいると聞いた。「鹿児島県人であって、「歴史・文化に違いがある」ことがわかった」。

鹿児島県本土の人が奄美を蔑視した時代もあった。「学生時代 団体で競技の選手として宿泊した旅館に一人で行ったら『島の人はダメ』と断られた」事例、昭和40年当時の話。

 

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